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光について 補遺

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2005-04-01

光について L'addition

 本編にお付き合いくださった読者さんへのおまけとして、外伝的な位置づけのお話をアップします。
 ほとんど作者による二次創作みたいになっているので、本編をお気に入りの方はお読みにならないことをお薦めします。
 

 慣れないネタを書くとこれほどまでに疲れるのか…。
 
◆追記
 Works の方にHTML版をアップしましたので、そちらのほうもよろしければ。
  L'image future


 十二月も半ばを過ぎて、関東地方上空を覆った寒気団の威勢は止まるところを知らない。先週降った牡丹雪がまだ残っている。日照のない団地の日陰には、茶色に汚れた残骸がしぶとく寒気に生をつなぐ。
 
 日曜日の朝、実に一週間ぶりの晴天。皮膚を削ぐ剃刀のような大気も何故か心地よい。寝間着に薄手のカーディガンを羽織っただけの姿で、彼女は居間の窓を少し開けてみる。途端に室内に吹き込んでくる冷気に当てられて、女の吐息は白くなる。

「明。そろそろ起きなさい」

 襖一つ挟んで男の寝床へ入ると、灯は枕元でそう声を掛ける。だが、彼は顔を布団で隠したまま返事をしようとしなかった。

「明」
「…なに」

 寝起きの彼はいつも不機嫌だ。灯にしたところで朝はいつも霞がかった頭を抱えて、眠気を振り払えないのだが、明の寝起きの悪さは彼女のそれを越えている。血のつながりを意識することなどほとんどない生活をしていながら、こうした些細な相似に面影を感じられるのは、彼女にとって密やかな喜びの種だった。
 悪戯心の発露か、灯は冷えた自分の手を彼の首もとに押しつけた。途端に体温が交じり合って、凍った細胞を溶かし始める。

「…冷たい」
「ほら。昨日約束したでしょう? 朝はちゃんと起きる」
「んん、あれは平日だろ。今日休みじゃないの?」

 依然掛け布団を手放さない。起きる素振りを見せるどころか、女の冷たい手の平を避けようと更に逃げを打つ構えだ。

「明、いい加減にしなさい?」
「…はいはいはい。今何時?」
「もう七時になるのよ。だらだらしてたら一日終わっちゃうわ」
「終わらないって。七時…。昨日おれ遅かったの知ってるだろ」
「ええ。熱田さんたちと楽しく食事してたのよねぇ?」

 皮肉めいた口ぶりを受けて、漸く明は布団から目元を出した。

「いや、だから。また蒸し返しか。熱田は後からちょこっと顔を出しただけだし。始終飲んでたのは孝太郎とかとだって」
「分かってるわ。でも、もうわたしの作ったご飯に飽きちゃったんなら言ってちょうだい? わたしだって子供じゃないもの、ちゃんと聞き分けは付くのよ」

 いよいよ雲行きが妖しくなってきた。明は細目を開けて姉の顔を探ってみる。小さな口を結び、こころもち顎を突き出した仕草は、まだ本気ではないことを示している。だが、これ以上だらだらとしていたら、遠からぬうちに姉は怒り出すだろう。
 彼は心内に苦笑するしかない。同居を初めて二年、灯の人格を形成する大きな要素の一つは、明らかに「母親ぶり」だった。世話を焼かれるのが今更鬱陶しいと思うほど幼くもないが、やはり時折度を過ぎれば、ため息の一つも付きたくなる。
 姉の心情は理解できる。彼女は一面で異性として彼と対しながら、もう一方で、奪い取られた幼時の埋め合わせを無意識に求めている。彼はそんな女の願望を全て引っくるめて受け入れたのだから、文句を言う気にはならない。だが…。

「朝っぱらから…頼むよ。ちゃんと昨日納得しただろうに」
「ええ。その後明は言ったでしょう? 久しぶりの休みに」
「どっか行こう、って。だろ」
「そうよ。もちろん明は行き場所を考えてくれていると思うから」

 明は酒に強い。工事現場で働いていた頃に鍛えた健啖と酒好きはかなりのもので、大学のサークルで行われる宴会など二つでも三つでも平気で渡り歩くことが出来る。
 大検を取得して大学に入学してから、それまでの自傷的な生活を帳消しにするように、彼はよく友人たちと遊びに出かけた。同級生よりも何歳か年上で、落ち着いた雰囲気を持つ明は、意外にもクラスメイトにすんなりとけ込んでいる。酒席の誘いは必ず来るし、来たら来たで受けるものだから、自身意識することもないままに友情は培われていた。

「そういえば、昨日お友達からお電話があったわ」
「そうなの? 啓輔?」
「いいえ。女の子から。可愛らしい声だったわよ。でも、わたしが出たら、すぐに切っちゃったから」

 灯の手は口ほどにものを言う。彼の頬を無意識に撫で回すその動きに、沈殿していた最後の眠気が霧散した。

「家に?」
「いいえ。あなたの携帯。忘れていったでしょう?」
「あー、あー、携帯、ね。うん。たぶん今度のゼミ選択の相談とかじゃないかな。ほら、三年になるとゼミあるだろ。あれ。あれさ、みんなで情報集めてて…。誰かなぁ…誰だろ。ちょっと心当たりがないなぁ」

 明は、いつの間にか布団の上で正座している自分に気づく。布団を剥がれた肩の辺りがやけに寒い。

「だめよ。明。お友達は大事にしなくちゃ」
「え? あー、うん。あのさ、その、携帯とかはさ、ほっといてくれればさ…」
「なにか言いたいことがあるの? 明」
「いや。いや。ない」

 灯は揃えた自分の膝に手を乗せて、じっと明を見ている。寝癖のせいか、男の後頭部の頭髪は不揃いに立っていて、その体格に似合わぬ子供っぽさを演出していた。
 もちろん灯とて、本気で腹を立てているわけではない。内容の三分の一も理解できなかったが、異様な熱を持った手紙の束を貰ったことがあるくらいだ。今更ぽっと出の女に惹かれるようなこともあるまいと分かってはいる。だが、こうして嫉妬を演じてみるのも悪くない。慌てふためく明の仕草を見られれば、充分な報酬である。

「さて、ご飯食べましょう。ちょっと待っていて。今から作るわね」

 そう言って会話を切り上げると、彼女は立ち上がり、台所へ消えた。一人和室に残された明は、正座をいまだに崩せないまま、姉の後ろ姿を眺めていた。
 女の黒髪はやはり綺麗だった。高校生のころの、周囲全てを飲み込む黒ではない。触れば柔らかく、指を包む黒だ。
 ぼんやりとそんなことを考えている。すると、先ほど消えたはずの眠気が再び鎌首を擡げて、彼のこめかみをゆっくりと締め付ける。落ちていく瞼は捲り上げられた布団を志向する。ぬくもりの残滓が残っているからだ。

「二度寝はだめ」
「え? ああ。うん」

 布団の山に潜り込もうとした矢先、計ったように灯の声が届いた。
 
 
 
 ‡
 
 
 
 街を共に歩くのは悪くない。いつも静かで落ち着いた足取りの姉だが、自分と歩くときには、ほんの少しだけ浮つきを見せる。明は一歩先を行く灯の半身を眺めながら、そんなことを考えていた。

 上野駅の改札口は、晴れた日曜の昼時に相応しく、雑多な人の群れで溢れている。両親に手を引かれながら周囲を物珍しげに見回す幼児から、子供とおぼしき中年の男女と共にゆっくりと歩く老婆まで、明が捉えた公園口の改札は、秩序という要素を完全にどこか置き忘れている。
 しかし、不快ではない。あたかも一匹の粘菌の如く蠢く人塊のそれぞれが異なった背景を有していることを明は既に理解していた。自分と、そして、傍らを歩く灯にも固有の背景がある。確固たる歴史を持った一つの人格でありながら、同時に群衆の一人でもある。

 彼は無言で灯の手を握りしめた。女性としては平均的な体格の灯だが、明から見ればどうしても壊れやすい人形のように感じられるのだ。肩が触れ合えば折れてしまう。床に踵をひっかければ転んでしまう。過保護と知りながら、体格差のゆえか、明は常に女の足取りに注意を向けていた。

「混んでるわね。やっぱり」
「想定済みだろ」
「ええ。わたしは別に、嫌なわけじゃないわ」

 大学で資格を取り、栢の図書館で司書として働き始めた灯にとって、普段の生活の中で人波に揉まれることはほとんどない。通勤手段は車、職場は静寂を旨とする図書館。自ら出向かない限り、人混みを目にすることさえないだろう。

「はぐれないでくれ。構内アナウンスなんかしないからな」

 繋いでいた手を一度離し、自動改札に切符を入れて外に出る。その瞬間を狙って明は軽口を叩いた。

「もう。馬鹿なこと言わないで」

 そして言葉は寒風に浚われてしまう。

 冬の大気は水分を持たない。だから太陽の支配を妨げるものはなにもない。
 薄暗い構内に慣らされた二人の瞳は、恐ろしい密度で放射される陽光によって一瞬で塗りつぶされた。暖光ではない。ほとんど暴虐的な、ほとんど重量を備えた光である。
 
「寒いな…」
「だから言ったでしょう? あと一枚中に着ておきなさい、って。わたしの言うこと素直に聞かないから」
「分かった分かった」

 こと体調の話になると容易には終わらない。風呂上がりに薄着でいれば、やれ風邪を引くの湯冷めをするのと、灯の小言を逃れる術はない。明は長い同居の経験から、こういう場合の対応策を充分に承知していた。
 
「ほら」

 男の大きな手が女の空いた手を捕食して、そのまま自分のコートのポケットに――手の巣穴に――引きずり込んだ。

「おれはむしろ灯のほうが寒そうに見えるよ」
「スカート?」
「うん。昔から思ってたんだけど。寒くないの?」
「寒いことは寒いわ。でも、慣れちゃったのかしら」
「たぶんそうなんだろうな。おれだったら二分と持たないよ」
「瞬発力は男の人のほうが大きいけれど、耐久力は女の身体の方があるらしいわよ? この前テレビでやってたんだけど」
「へぇ。知らなかった」

 じっと何かに耐え続けることができる人間は少ない。忍耐は容易に自己憐憫に転化する。あるいは、自棄を導く。ただ口を閉ざし、黙々と歩み続けることは、命を投げ出すことよりもよほど難しい。彼はまだ、自己の耐性の限界を垣間見たことすらない。結局何一つ我慢できずに、灯に思いの丈をぶつけ、選択権を全て委ねて彼女の腕の中に舞い戻った。
 明が握りしめた女の左手に、ゆっくりと体温が戻ってくる。彼の熱が灯の肉体に絶え間なく流れ込んでいた。
 灯は何を考えて四年間を過ごしたのだろう。ふと浮かんだ疑問の種が途端に大きくなって、青年の思考を満たした。彼女は明を受け入れた。そこに理由はない。少なくとも、彼は尋ねたことがない。何一つ、尋ねたことがない。将来のことも、現在のことも、過去のことも、である。

「手、冷たいな」
「冷え性なの。明の手は温かいわね」
「灯が冷たすぎるんだよ」

 彼はそして口を閉ざした。

 明治時代から変わらない上野の公園区画。木々から撒き散らされた落ち葉が強風に煽られて二人を足早に追い越していく。薄い茶色の葉片と砂埃の皮膜を被った石畳が同化して、遍く地面を余所余所しい面構えに見せる。
 チェックのロングコートに身を包んだ灯は、首元の白いマフラーに口元まで埋める。愛らしい蓑虫のような女。その手を引いて、明は公園中央の大きな広場を抜けた。動物園に向かう家族連れの姿がなくなってみると、残った人々の年齢層は一気に上昇していた。
 
 
 
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「こういうところ、飽き飽き?」
「いいえ。好きよ。静かで、落ち着いていて。静けさが嫌いな人には司書は勤まらないわ」
「ならよかった。もっと騒げるところがいいかと思ったんだけど、思いつかなかったから」

 前もって買ってあった切符を受け付けで切り分けて貰うと、半券を無造作にコートのポケットに押し込みながら明が尋ねた。
 『ワシントン・ナショナル・ギャラリー・コレクション展』が開催されていることを知ったのは、授業のない火曜の午後、居間で見たテレビ番組を通してだった。特に意図があったわけではない。絵画に興味があるわけでもない。ただの思いつき。

「ゲーセンにプリクラ撮りに行く、ってわけにも行かないだろ」
「そうね。きっと周りから浮いちゃう」
「かといって昼間から居酒屋ってのも変だし」
「ここでよかったわ。もし居酒屋なんて言われていたら…」
「冗談だって。それは流石に…ねぇ」

 案外に深刻な口ぶりの灯に彼はたじろいでしまう。いくら無分別とは言っても、酒を全く飲まない姉を昼間から酒盛りに誘うような真似はしない。

「お休みの日なのに、そんなに混んでないみたい」

 薄暗い第一展示会場を微速で歩きながら灯が呟いた。かなり前から開催されている催しのため、最初の目新しさが薄れてきているのか。それとも、もっと気の利いた休日の過ごし方を知っている人間の数が想像以上に多いのか。

「まぁでも、閑散としてるわけでもなさそうだし」
「そうね。…さて、明のお薦めを教えて貰おうかな」
「無理。絵なんて全然分からないよ。綺麗だとは思うけど、それだけだ」
「しっかりしなさい。文学部なんだから」
「灯もだろ」
「わたしは図書館情報学だったもの」

 顎を軽く上げ、すましたポーズを取る姉に、明がすかさず合いの手を入れる。

「そんなこと言ったらおれなんか哲学だよ。絵を見て楽しむっていうより、『絵とはなにか』を考えるタイプなわけで」

――そう。おれは絵になんか興味ない。

 心内でそう続けた。彼は絵を見に来たわけではない。ただ、絵を眺める灯を見に来たのだ。分厚いガラスを挟んで柔らかい照明に照らされた静物画を覗き込む彼女。長い髪を肩の後ろに流して、細部まで精査する瞳。造形の美しさに惹かれたのではない。客観的に見て彼女よりも美しい女など掃いて捨てるほどいるだろう。ならば、彼が灯に強く惹かれるのは、容姿そのものに対してではあり得ない。灯の顔には、明だけが汲み出すことの出来る『意味』があった。小さな口に、細い鼻梁に、明は色々な意味を見いだすことができる。
 彼女の顔は事実、二人が共に培ってきた様々な感情の背景を持っている。しかるべき所に置かれた色とりどりの絵の具が総体として一幅の絵画になるように、日常の微細な記憶が形作る顔だからこそ、明はそれを愛した。それは決して手を触れることができない。丁度強化ガラスの向こうに掲げられた名画のように、触れずに楽しむ必要がある。
 
 展示作の説明を読むために屈み込んだ灯の真横に立って、視線は静物画に留めたまま、彼はそんなことを考えている。
 展示会場に入る前に離した手を、今度は灯が捕まえた。あたかも無意識の所作であるかのように、それは自然な邂逅。おそらく、彼女が手を繋ぎたかったのではない。手自体が連れ合いを求めていたのだ。
 彼は女の指の間に自らのそれを噛み合わせ、小さな掌を包み込む。交じり合った微細な汗は、あるいは潤滑油の役割を果たしているのかもしれない。

「やっぱりカップル多いな」

 明が呟いた。

「そうね。美術館だもの。静かにしている必要があるから、赤ちゃんを連れてくることもできないし」
「うん」

 曖昧な返事を返しながら、メインギャラリーへ向かう回廊を歩く。
 自分たちが推測するのと同じように、他人から見れば自分たちもカップルに見えるのだろう。数歩先を腕組み歩く若い男女の後ろ姿を眺めていると、自然とそんな感慨がわいた。

「カップルか…」
「わたしたちもきっとそう見えるわ」

 心底愉快そうに、彼女はくすりと笑った。そしてマフラーの中の頭を男の肩に預ける。明の胸に顔を押しつけるのは灯の癖になっている。だが、この時、化粧が崩れることを本能的に厭ったのか、ただ頬を押し当てただけだった。

 明の胸裏に浮かんだ言葉は、執拗にしがみついて離れようとしない。

――カップル。

 それは一個の確固たる社会的関係性を表す言葉だ。つまり、二人は愛し合う男女であり、今後も愛し合い続ける可能性がある。そして、”結婚し”家庭を築く「可能性」を秘めている。
 結婚、家庭。社会の内部で生きようとする明は、人々が作り出した人間のカテゴリを無視することが出来ない。

――背徳とかインモラルとか、そんなのクソ食らえだ。

 彼は自身と灯との関係を、淫靡な言葉の襞で包み隠そうとは思わない。否、背徳感を感じたことがない。禁断の恋、などという言葉は実体を持たない。社会一般のカテゴリから外れた感情を全く抱くことのない人間など存在しないだろう。ならば、関係を「禁断」になさしめるものはつまり、その人間の持つ心象なのだ。人は時々、自身の有り触れた感情に「禁断」のラベルを貼る。すると途端に関係は禁忌となって、当人が抱く希少性への幻想を満足させるのである。明はもう、そんな下らない言葉遊びをする気にはなれなかった。自分は灯と――つまり姉と――生きていく。ならばそこに、好んで悪趣味なレッテルを求める必要があるだろうか。思考の水面下で常に反芻していた疑問を、彼はいつものように深く飲み下した。
 では、灯はどう考えているのか。彼女の考えを知りたかった。彼女が何を求め、何を求めていないのか、余すところなく知っておきたかった。二人が別の個体として存在する以上、一個の感情を共有することはできない。しかし、理解することは出来る。完全に、ではない。だが、出来うる限りの近似値を、である。
 
 
 
 ‡
 
 
 
 回廊を抜けると大きなメインギャラリーの一室に出た。部屋の四隅に立ったガードマンの青い制服が、展示物の価値を門外漢に教えてくれる。
 高校の教室二つ分ほどのスペースを持つその広間には、四方の壁に余白なく大小の絵画が掲げられていた。室内の照明は薄暗く、起毛を短く刈り揃えた絨毯のお陰で足音もない。
 
 一見普通の展示場でありながら、明らかに空気が違っていた。まばらだった人影が、部屋の最奥、ひときわ明るくライトアップされた壁面に群がっている。
 
「なんかあるっぽい」

 明は無意識に灯の手を握り直した。その行為の滑稽さを既に彼は自覚している。一般の男女のように、恋人の体温を感じるために手を繋ぐのではない。ただ、自分から離れていかないように、手を「掴んで」いるのだ。
 人混みは青年の本能に訴えかける。自分の延長であるはずの女が、有象無象の人波に浚われて消えてしまう。平生意識に登らぬ危惧なのに、何故かこのとき、ひどく強烈に意識を揺さぶっていた。
 
 
「ほぅ、あれがねぇ…」
 密集した人垣の所々から、ため息まじりの呟きがもれる。
 側に立つ中年の婦人が手に持ったパンフレットを団扇の代りにして扇ぐものだから、刺激臭にも似た化粧の匂いが彼の鼻にまで届く。粉っぽい匂いだ。一番似通ったものを探すならば、箪笥の芳香剤に似ている。
 
――おれの灯はこんな匂いしない。

 心内に浮かんだ言葉に彼は苦笑するしかない。姉だって化粧はするだろう。だが、彼はしてほしくなかった。化粧は彼女を見知らぬ女に変えてしまう。明は灯が見知らぬ女、外の女、他所の女であることを求めたはずだった。しかし、心のどこかで、彼はもう一つの側面を女に求めていた。それは化粧をしない、或いは、する必要のない女の姿である。露わな肌を恥じる必要のない関係を、不可能事として排斥しておきながら、どこかで願っている。つまり彼が幼い頃に取り上げられたまま、二度と取り戻すことの出来ない概念である。

 彼はそして顔を上げ、自らに欠けている概念を発見した。

 鮮やかな紅色の服を着て、金髪を綺麗に編んだ女が、裸体の幼児を膝の上にのせて座っている。幼児は女の首筋に両腕を回しながら、その目を彼女に向けてはいない。背後に広がるくすんだ田園の情景から、女と赤子だけがぽっかりと浮かび上がる。
 女は若い。うっすら赤みの差した頬も、首筋も、赤い袖口から覗く右の手も、肌は全て張りを残し、体内の養分を赤子に吸い取られた風でもない。
 一方、赤子は大人びている。丸々肥えた幼児特有の四肢に比して、その瞳には確固たる思慮の光が宿っていた。彼は女の膝に立ち、尻を女の手の上に乗せながら、あくまで女とは別個の生き物である。
 しかし、二人は親子なのだ。視線を合わせずとも、頬を合わせずとも、唇を合わせずとも、二人は明らかに一つの存在としてキャンバスの上に現れる。お互いがお互いを所有し合っている。赤子は誰に憚ることなく、自明の権利として女に張り付き、女もまた、赤子を自らの延長として、当たり前のように抱き留めている。この二つの存在には、お互いの関係を確認する必要などないのだ。赤子は明らかに女のもの、つまり、息子であり、女は明らかに息子のもの、つまり、母である。

 聖母子像。

 明はなにも喋らなかった。ただじっと、その小さな矩形を視界に取り込んでいた。絶えず確認し、更新し続けなければならない関係性を彼は求めてきた。意思によって作られる関係のみを求めてきた。生まれ持った関係、断ち切ることのできない関係を認めることは、つまり運命に対する敗北なのだ。そこには意思が欠けている。人性の最も尊いもの。自己を自己として主張できる唯一のものが欠けている、と。
 だが、今、遙か五百年も前に描かれたちっぽけな紙片を前にして、明を揺さぶるのは凶暴な情動だった。彼が否定してきたものは、決して否定することができないものなのだ。それは化粧をしない女の姿だ。

「灯」

 からからに乾いた喉が掠れた音を出す。否、もはや音ですらない。声帯がしっかりと空気を震わせることができたのかどうか、それすらも定かではない。
 しかし、それは音になっていた。言葉は確かに、傍らの女に届いた。彼女はキャンバスに向かう視線を、ゆっくりと彼の瞳に向ける。

 泣き顔を美しいと思うことはほとんどない。涙は余計なものを色々と含みすぎている。怨恨、媚態、恐怖、羞恥。どれも塩に混じって、涙の透度を損なうものだ。だが、灯の両目から頬を這い、やがて下あごを抜けて胸元に流れていくであろうそれは、掛け値無しに美しかった。

「…ごめん」

 彼が口にできるのはそれだけだ。灯を「掴む」ことで、彼女から奪い去った機会は代替不可能なものである。だが、それについてを謝罪したのではない。ただ、罪悪と知りながら女を「掴み」続けるという行為に対して彼は謝った。たとえ彼女が嫌がったとしても、もう手放すことはできない。二人の関係性の糸は複雑に絡まり過ぎて、解こうと思ったら刃物で両断するしかないのだ。

「わたしには…明がいるもの」

 灯の声は感情の昂ぶりに乗せられて震えている。

「そう」
「ええ。明だけでも手が掛かるんだから、子供なんて……無理だわ」

 薄い橙の照明が女の頬に朱を散らした。下がった目尻には涙が溜まっているけれど、口元は確かに微笑んでいた。
 それは奇妙な混交だった。女の小さな身体は相反する強烈な二つの感情を秘めて、今にも内側から弾け飛んでしまいそうに見えた。彼が女を抱きしめることに理由があるとすれば、愛おしさよりもむしろ、悲惨な破裂を防ごうとする応急処置としてである。

「結構きちんとしてると思うけどな」

 半ば口の中に音を止めながら、灯は彼の首筋に顔を埋めている。

「だめよ。もっときちんとして。脱いだ服は脱ぎっぱなしにしない。お風呂に入ったら桶に水を溜めない。ほら、まだまだあるのよ」

 シャツの生地を抜けて、生暖かい涙を皮膚に感じる。不快ではなかった。涙は化粧をある程度落としてくれるだろう。照れ隠しに生活の枝葉末節を言い募る灯は、化粧を落としてはじめて、彼の姉になる。

 産まれたときから灯は姉だった。そして今、彼はその事実を認める気になった。やがて別れ、新しい生活をそれぞれに営むような姉弟ではない。共に見つめ合って生きる相手が、血を分けた姉であるという事実から、彼はもう目を反らすことができなかった。

 寒さを嫌って布団に頭を押し込んだ仔猫のように、今明の胸元で微動する女の頭を見ていると、他の全ては些事であるように思われた。

――おれは姉を愛している。

 口に出してそう言う気にはなれない、だから静かに女の美しい毛並みを撫でた。
 およそ動物に近い。もし動物に愛なる感情があるとすれば、今自分が感じているものこそがそれなのだろう。明は思った。
 
 
 
 ‡
 
 
 
 姉弟の家は狭い。明が出奔して以来、彼が住んでいたアパートは灯によって管理されてきた。公営住宅だけに家賃は四万と安く、無収入の高校時代には、今までこつこつ貯めてきた貯金を切り崩し、大学に入学してからはアルバイトの収入を充てることで維持した。そして現在、定職についた彼女にとって、家賃が重荷になることはほとんどない。
 取り込んだ洗濯物を、カーペットを敷いた居間の床で畳みながら、灯は昔の回想に耽る。
 築三〇年の公営住宅。彼が灯の前から姿を消していた日々、この部屋だけが、途切れた弟との関係を修復する唯一の糸口であるように思われた。灯は毎日放課後この部屋に寄って掃除をした。週に一度は食事を作り、一人で食べた。使用者のいなくなった生活雑貨の隣に、新しい、彼女自身のそれが並ぶ。大学時代には、授業のない日など、よく居間で日向ぼっこついでに居眠りしたものだ。
 空虚とはこのような状態を言うのだと、彼女は暫くして気が付いた。語りかける相手は居らず、食事を共にする者もいない。灯の小さな身体には、大きすぎる殻だった。そして彼女は明の本当の姿を知った。つまり、大きすぎる殻に一人、耐え続けてきた少年の姿を、である。明は無言の壁に向かって、或いはテレビに向かって何を話し掛けていたのだろう。それとも、口を利くことさえ忘れていたのか。
 それは一人暮らしではない。ふと寂しくなったときに電話を掛ける郷里の両親は存在しない。夜通し騒ぐ友人とてない。弟は正に、遺棄されていたのだ。
 そして彼女は思い出す。あの春の日の午後、部屋の隅で光を避けるように震えて蹲る弟の姿である。あの日気味悪く、吐き気すら覚えた薄暗いシルエットが、今や愛おしくすらある。もう二度と明をこんな目に遭わせない。義憤とも哀れみとも違う。彼女は自己の精神に宿った燃えさかる情動をはっきりと自覚していた。

「姉さん」

 正座した膝の上でバスタオルを畳んでいる灯に、明がぽつりと語りかける。普段使われることがない呼び名が出た驚きから、目の前で寝転がっている弟に目をやる。しかし、彼はテレビの方を向いたまま特に起きあがるわけでもないらしい。

「なぁに?」
「それ、もう終わる?」
「ええ。もう終わり」

 最後の一枚を畳み終え、脇に置く。すると、気配を察した明がのそりと身体を這わせ、その頭を彼女の膝の上に乗せた。
 灯の膝には、衣類のそれとは違う本物の重みが掛かっている。明は時々戯れにこういう行動に出る。だから今回も、膝枕それ自体に驚くことはない。

 明は喋らない。膝の谷間に後頭部を預け、彼女を下から眺めている。灯は彼の額を覆う前髪を指先で軽く払った。

「重い?」
「いいえ。平気」
「そう」

 そう。重くはない。灯が膝の上に感じるのは、物質の重量ではありえない。それは高江明という一人の人間存在が持つ精神の重みである。
 人間はごく稀に、全てを超越する強烈な感情を他者に対して抱くことがある。性欲でもなければ愛情でもない。憎悪でも軽蔑でもない。それら全てを包含して、自らの体内に余さず取り込んでしまおうとする、貪欲な情動である。例えば幼子を抱く母が感じるものであり、例えば情交を終えた男が、腕の中で眠る女に感じるものである。

「ねえ明」

 彼は答えずに、瞳で先を促している。灯は息を飲み、続く言葉を吐き出した。

「わたしのこと、好き?」

 男は笑っていた。その表情は、想い出の最奥に仕舞われている父親の笑みに似ていた。
 しかし、もう灯は間違わない。膝の上で微笑むのは弟――明なのだ。

「好きだ」

 そして彼は答えた。
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Comment

はくあ : 2005-04-01(Fri) 20:03 URL edit
とても、よかったです。なんとなくですが、二人はこうしてこれからも過ごしていくんだろうな、と思いました。
chikin : 2005-04-01(Fri) 23:50 URL edit
読ませて頂きました。
内容について感想を書こうとすると、不粋かトンチンカンになるかのどちらかになってしまいますので一言。
とても綺麗な文章でした。風景・人物・心情の描写をこれほど豊かに表現なされる技量には感服するばかりです。
これからも笙司氏の作品を楽しみにさせて頂きます。
それでは、乱文失礼しました。
笙司眞一 : 2005-04-08(Fri) 22:47 URL edit
>はくあさん
どうもお読み頂いてありがとうございました。二人がこれからも静かにまったり暮らしていけるといいなぁ、と。
>chikinさん
技量については・・・恐れ多いことです。まだまだ至らぬ所ばかりで。お褒め頂けて光栄です。
今後ともよろしくお願い致します。
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