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光について 第2部 1-2

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2005-03-07

第2部の第1回はコレで終わり。
少し更新に時間が空いてしまった…。





 2




 決まり切った挨拶とともに招じられた部屋の中には白い光が天井に張り付いていた。居間にはいると人の声がする。小さな古いテレビが吐き出すそれは、機械に犯された人声だった。
 黙って周囲を見渡す倖に、明も身振りで椅子を勧めた。女が席に着いたのを見届けると、彼は最小限の動作でテレビの電源を切る。
 一瞬。一秒の数十分の一の瞬間を境に、部屋は無音のゲルに包まれる。沈黙からは誰も逃げられない。相手に合わせて幾らでも形を変えるそれは、躊躇の欠片もみせずに人を殺す。
 先に口を開いたのは倖だった。静寂の恐怖は、日々親しく付き合わなければ克服できない。意味のあるはずだった発話がその意味を無惨にはぎ取られ、裸の音となってたゆたう様に、その無感動な屠殺に、眉一つ動かさぬほどに慣れていなければならないのだ。

「明くんはお父さんに似てる。驚くくらい」
「そうですか? それは…うれしいな」
「勇次さんもこんな感じだったわ。わたしはまだ子供だったんだけど――中学生くらいかな――最初に会ったときは、クラスの男子たちとあまりにも違うからもう、驚いちゃったわ。ああ、大人の男の人ってこうなんだなぁ、ってね」

 悪戯めかして彼女は笑う。だから明も笑い返した。倖の話は大しておもしろくもなかったが、彼女の表情が、笑ってくれと懇願していた。
 
「勇次さんのこと、教えてくれない?」
「特に目新しいことはありませんでしたよ。家にもほとんど居なかったですし。休みの日には一緒に遊んだりしましたけど。普段はあんまり会話もなくて」
「そうなの…。その……寂しくなかった?」

 彼女は頬に掛かった髪を掻き上げ耳の後ろに流す。しかし、直ぐに俯いてしまうものだから、ばさりとまた落ちる。明と話し始めてからもう四、五回は見せているその仕草はきっと彼女の癖なのだろう。明はそんなことを考えていた。
 人間が一人増えただけなのに、部屋の気温は大層上昇したように思う。皮膚から、鼻から、口から放出される排気がそうさせるのか。

「寂しいときもありましたけど、そればっかりってわけでもないです」

 少年の言葉に他意はない。それが分かるだけに倖の心は締め付けられる。それは憐憫といってもよい。唐突に自らの心中に飛来した新たな感情に、彼女は容易に流される。いろいろな要素が全て、女に一定の方向を強要したのだ。
 昔憧れた男とうり二つ。母親から半ば捨てられて、独りで寂しく暮らす甥。生後二日の猫が雨ざらしで道路に放置されているのを見て、憐れみを感じるのと同じように、確かに彼女は憐れんでいた。
 
「そう。…遊ぶって、何をしたの? 男の子の遊びってあんまり想像付かないなぁ」

 自分はどうかと振り返ってみれば、勇次にねだって遊びに連れていって貰ったこともある。「大人の人」を連れている。それがひどく誇らしかった。食べたい物を食べさせてくれ、欲しい物を買ってくれる。話したいことは聞いてくれる。同年代の男の子たちのように、張り合う必要もなければ、欲情した瞳を避ける必要もない。まだ幼かった天嵩倖にとって、勇次は「お姉ちゃんの旦那さん」でありながら「世界で一番かっこいい」大人の男だった。
 
「キャッチボールとかしましたね。父は身体が大きくて、どこに投げても取られちゃうから、すごく悔しかった思い出があります。キャッチボールは相手に取ってもらえるように投げるものなのに…」

 今度は明が噛み殺した笑いを浮かべた。俯き気味に口元を締めて肩を上下させる様は、父親の仕草の面影を色濃く残していた。
 
「いいわね。目に浮かぶわ」
「子供の頃、お会いしたことありましたよね。そういえば」

 言いながら、コーヒーでも入れようと彼は立ち上がる。両手に巻いた包帯が倖の目に入る。学校から電話で連絡を受けているため、なぜ包帯が巻かれるに至ったのか、事情は承知していた。
 
「わたしやるわよ。座っていて」
「でも、お客さんですから」
「甥にお客さん扱いされるのは寂しいものよ。大丈夫。三十過ぎて独身の女は紅茶とかコーヒーとかに無駄に凝るの。そんなイメージあるでしょ?」

 どう答えるべきか分からずに彼は苦笑いでお茶を濁した。
 
「こんなおばさんが毎日『カレシのハートをワシヅカミ! 春のなんとか特集』とか書いてるなんて、少しおもしろいと思わない?」
「おばさんだなんて思いませんって。倖さんは綺麗ですよ」

 そういえば昔、新しい服を買ったら真っ先に勇次に見せたものだと、てきぱきと二セットカップを用意しながら彼女は思いだした。彼はこう言っていた。
『倖ちゃんは何を着ても綺麗だ』
 すると姉がやってきて、彼女の夫へのご執心を茶化して笑うのだ。思えば自分は本気で姉の冗談に憤慨していた。まだ穏やかだった頃の思い出が無意識のうちに後から後からわき出してくる。
 台所でむき出しになった電灯の光を浴びながら、倖はやかんに水を入れる。狭い台所。彼女の雑誌と同じ会社から出ている二十代の女性向き雑誌では、目も当てられないほどに叩かれる、給湯器もついていないシンク。だが。
 例えば勇次の隣に立つのが姉ではなくて自分だったら。自分はこの小汚いキッチンに満足しただろうか。たぶん満足しただろう。恋愛は絵空事ではないと嫌と言うほど分かっている彼女にさえ、過去の記憶は抗いがたい魅力を持っていた。
 
「ありがとう。お世辞でもうれしいかな」
「ははは。なんか照れますね」

 乾いた笑い声さえも父親とどこか似ている。それは危険な相似だ。倖があこがれたのは「大人の男」としての勇次だった。明は逆に、十歳以上も年下の少年だ。なによりも姉の息子なのだ。
 
「ねぇ、明くん」
「はい?」

 前から計画していたこととはいえ、この時彼女が話してしまったのは、部屋に充満した独特の雰囲気のせいだったかもしれない。
 
「一緒に住まない? 灯と、わたしと一緒に」

 これで明が勇次と似ても似つかぬ年相応の少年ならば言うことはなかった。甥と姪を義務感から預かる年長者の役を淡々と勤めることができただろう。だが、どうやら事はそんなに単純でもないらしい。
 もちろん彼女はいい年をした大人である。夢は放っておいてもさめるだろう。だから明を手元に置いて暮らすことで、逆に過去の残滓をすっきり掃き捨ててしまいたかったのかもしれない。

「いいですね」

 この『いいですね』がどういう意味を持つのか、よく分かっている。何かを断る時に冒頭に置く接頭辞。もう一歩踏み込んでみるべきだろうか。あるいはここで引くべきだろうか。一瞬の躊躇をはねのけて、彼女はもう一言、言い募ることを選んだ。
 
「灯がね。部屋から出てこないのよ。もうこれはうちの女の血筋なのね。お母さん…明くんのおばあちゃん…もそうだったんだけど、天嵩の女は、嫌なことがあるとすぐ部屋に籠もるの。布団をかぶってじぃっとしてる。あなたのお母さんも、灯も」
「倖さんもですか?」

 自身も同様だ。部屋に鍵を掛けて、ベッドの中に潜り込んで、最低二日は出てこない。会社勤めを始めてからはそうも行かないことが多いけれど、未だに幼時からの慣習は完全に抜けきっていない。
 
「そうね。わたしも」

 だから素直にそう答えた。
 明の家にはコーヒーメイカーなどといった大層な代物は存在しない。畢竟インスタントに落ち着いて、味がどうこうと語る術もない。それでもコーヒーはコーヒーだ。彼女は濃い方が好みだから、明の好みを尋ねることもなく普段通りに入れてしまった。
 カップを両手に持って居間に帰る。それぞれのソーサーにスプーンを付けて、こぼれないようにゆっくり運ぶ。自分の前に一つ、少年の前に一つ。カップを置いて彼女は自席に再び腰を下ろした。
 
「残念ですけど、籠もる部屋が足りません」
「ねぇ、明くん。その言葉に深い意味がある?」
「いえ。単純に、ここには二部屋しかありませんし」
「じゃあ、わたしが新しく部屋を借りたとしたら?」

 明は黙り込んだ。包帯で固められた手をぎこちなく動かして砂糖を二杯、黒い液体に注ぐ。
 
「どう? わたしは生活に干渉しない。アルバイトもする必要ない。来年は受験だし、そのほうがいいんじゃない?」
「ありがとうございます。でも、倖さんにご迷惑が掛かりますから」

 妙な気分だった。倖は不可思議な既視感を拭おうとカップに口を付けた。昔、勇次に弁当を作ってやろうとしたことがあった。学校の調理実習でも好評だった料理の腕を「勇次さん」に見せたかったのだ。
 彼は断った。
「明日は朝が早いんだ。起きるの辛いだろ。ありがとう」
 その一言で彼女は察することが出来た。自分の善意は男にとってありがた迷惑の類なのだ、と。

 今、自分は明に父親と同じやりかたで拒絶されるのか。
 頭に血が上る。
 ゆっくりと口実のヴェールが剥がれ出した。

 最近姉の匡子は家に帰らない。たぶん外に男が出来たのだろう。灯はそれを察している。明との間に起こったいざこざも含めて、灯は打ちのめされているはずだった。
 去年恋人と別れてから、倖もしっくり来る相手を見つけられない。一生このままという訳にはいかないだろう。自分はまだ美しい。自分はまだ頭が切れる。幾らそう言い聞かせても、焦燥は募る。およそ男など省みないシングル志向ならばよかったのだが、生憎学生時代からイデオロギーには無縁だった彼女には、それは目を背けたくなる残酷な真実だった。
 
「これでも貯金だけはあるのよ。わたし」
「そういう問題じゃないですよ。そもそもこの部屋の家賃を助けていただいているだけでもお世話になってるんです。これ以上…」
「ねぇ明くん。灯を助けてやって。あの子、打たれ弱いのよ」

 灯をだしにしている。自覚はしているが、明の翻意を促すことができるのは灯だけだ。なんといっても、血は水よりも濃いのだから。
 
「先輩に伝えてください。ひどいこと言って済みませんでした。って」
「何を言ったの?」
「いろいろです。そのとき頭に血が上っちゃってたんですね。きっと」

 一切内容を語るつもりはない。少年の顔ははっきりとそう告げていた。

「ええ。伝えておくわね。取りあえず、さっきの話は考えておいて。返事は急がないわ」

 これ以上の無理強いは不可能と判断して、倖は会話を切り上げた。
 
 
 
 ◆◆
 
 
 
 血縁の鎖は鉄で出来ている。そして鉄は腐食する。
 
 彼が想像の中に飼っている少女はとても美しかった。いい匂いがする、柔らかい肉で構成されていた。彼は今、剥き出しになった無防備な腹を撫でている。それは細い。雄性体から見れば不可思議な部品である二つの乳房の下で、ゆっくりと波打っている。
 エロティックな写真誌やアダルトビデオとは違う。彼女の身体は、薄紅色の滑らかな肌は、ルネサンス期の画家が描く裸婦像に似ていた。
 彼のお気に入りは女の長い髪と鎖骨の間。彼だけのために作られた空間である。体温が髪の中で温めた空気の中には、リンスの強烈な香気に混じって、女の肌の匂いがある。新陳代謝を繰り返す細胞の一片一片が作り出す、本物の、生き物の匂いだ。
 
 人間は肌を隠すために服を着る。同様に、裸の精神を隠すために「意味」の覆いを掛ける。意識が他者を自己の一部として取り込む過程で、複雑すぎる他人は記号に還元されていく。人は抽象化することによってのみ、他者を、自己を理解することが可能になる。
 脳裏に思い浮かべる他人は肉体を持っていない。友人、親、肉親、知り合い。その都度都合がいいように再構築された対象物(オブジェクト)である。
 人間にとって、ありのままであることは難しい。ありのままを見ることも難しい。なぜなら「意味」を創出する生き物こそが人間だからである。
 
 自慰が出来ないのは辛い。
 塞がった両手。折れた右手。これはきっととても皮肉で、しかしとても適切なしっぺ返しなのだ。そう思った。
 彼が失ってしまったのは、天嵩灯の「意味」であった。激発の中で、彼は灯から「姉」というラベルをむしり取った。あんたは他人だ。そう言った自分の口は、気が付けば自分を罰するものだった。
 
 灯と再会してからもう随分立つ。昔一緒に暮らしていた女と再び出会ったのは新聞配達の最中だった。一目見て、綺麗な女だと思った。冬の寒さに頬を上気させて、白い息を規則的に吐き出していた。様々な「意味」が形成される以前、いわば生の――現存在――としての彼女は、やはり美しかった。
 
 天嵩灯はもう姉では「ない」
 鬱陶しいレッテルは食いちぎってしまった。

 生殖行為に意味は邪道だ。それは相手を食いちぎる行為である。柔らかい腹を、甘い太股を、産毛の見える肩の肉を、噛み取って、咀嚼し、飲み下す。
 それは食事に似ている。原始の人間がそうしていたように、無粋な調味料は必要ない。あふれ出す血と体液を、肉と共に飲み下す。
 自涜の後、虚脱感がやってくる。それはたぶん再び張り付いた「意味」を厭う弱々しい抵抗なのだろう。
 今、明には、「意味」から逃げ出す術はない。フルカラーの視界に、ぽっかりモノクロームの立像がある。ちぐはぐな世界。彼は健全ではない。彼はどこか病んでいて、病んでいながら普通の人々の中に暮らす羽目になったのである。
 
 つまり、「愛」とはなにか。長らく理解できなかった疑問の答えを、明は今理解した。あるいは理解したつもりになった。愛とはつまり、無防備の性交、無防備の感興、無秩序な精神に、一つの名前を与えることなのだ。
 意味を作り出す生き物は、自らの生存する理由ともなった「意味付与」の行為を怠ることに抵抗を覚える。繁殖という生命体としての義務は、人間としての義務を反古にするのだから、頭の良い彼らはなんとか両者に折り合いをつけるしかない。
 
――この女は、あるいは、この男は、自分の「愛する」相手だ。

 脳内で叫ぶ。しかし欺瞞である。
 

 畳の上に敷いた布団はもう長く陽光を浴びていない。カーテンを閉め切ったアパートの一室、明は大きな身体を極限まで丸めて朝を待っていた。枕元に置いた腕時計が秒針を規則的に動かしている。
 音がする。カチカチと、ゼンマイが回る音だ。
 長く見つめすぎていたからか、父親譲りのそれは、いつしか形を失っていた。円形の金属に閉じこめられた三本の棒が、今にも透明な板を叩き割って彼の瞳に突き刺さる。頬に髪が当たると少し痒い。枕はプラスチックストローで膨らんで、羽毛とは違う厳しい感触を側頭部に与えるのだ。

 
 寝室には光がない。
 灰色になってしまった世界で、彼は独り
 光について、考えていた。

 
 
 
 第2回へ続く

 
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