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光について 4-2

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2005-01-24

光について 第4回 2

BMが遅れに遅れている今日この頃。取りあえず出来上がった光からアップする。
キャラクタ中心の話にしようと頑張ってはいるものの、効果が上がっているのかどうかも分からないまま手探りで書いている。やっぱりキャラクタ話は苦手。灯と明、読者さんに上手くキャラクタ像をお伝えできているとよいのだけれど。

TEXTファイル版って需要があるのだろうか。ありそうなら今後TEXT版も併せてアップする予定。

 
2

 
 
 
 鍵の回る音はいつも冷たい。薄緑がくすんで迷彩のまだらになった鉄製のドアをあけると、短い玄関の奥の濃厚な暗闇が見えた。明は手慣れた仕草で壁の電灯スイッチを探り出す。もう何年も交換していない電球は光度を失って、古い公団住宅の手狭な玄関スペースすら満足に照らすことができない。
 
「ただいま」

 彼の挨拶は声にならない。もちろん誰かに聞かせるためのものではないのだから、音量の多寡は問題ではなかった。玄関口を過ぎ、重い木の引き戸を過ぎるとリビングにたどり着く。右手に下げた鞄をテーブルの上に放り投げ、緩慢な動作でテレビの電源を入れる。日が傾いて、がらんとしたベランダを茜色に染めていた。時刻は四時半を過ぎて、再放送のトレンディドラマが流れている。
 テレビをつけたものの、明は目を向けることさえしなかった。今日はいろいろありすぎた。ペースを乱されている。日々変わったことが起こるのはおもしろいけれど、変化の発端がみな姉に関するものであることが疲労を助長している。
 
 姉。姉と暮らした頃の記憶はほとんど残っていない。幼い日の思い出はひどく曖昧で、およそ有史といえるのは、父親と暮らしはじめてから。鮮烈すぎる環境の変化が、過去の残滓をさっぱり消し去ってしまったのかもしれない。だが、それを残念とは思わない。思い出など暇つぶしの肴になるだけ。そう思う自分はどこか壊れているのかもしれない。
 明は鞄から大きな弁当箱を取り出して小さく笑った。明るい青の染料で染め抜かれたバンダナに包まれて、その矩形はテーブルの上に鎮座している。きつい結び目をゆっくりと解くと、弁当箱の黒い肌が夕日に映える。
 父親が死んで以来、人の作った料理を食べることは絶えてなかった。もちろん父親に弁当を作って貰ったのもはるか昔のことだ。給食が出る公立学校に通っていたのだから、弁当が必要になるのは遠足くらい。しかし、その希少性は少年の頭に強烈な印象を残す。みなが騒ぐおやつなど興味もない。ただでさえ朝の早い父親が、自分のために更に早起きして作ってくれた弁当。プラスチックの底面がほんのり暖かい。レトルトだろうが案外に手が込んでいて、ウィンナーにはちゃんと切れ目が入れてある。炊き立てのご飯。一人級友から離れ、公園のベンチで食べた。膝の上には弁当箱を置いて、一口一口食べた。
 
 変に感傷的になっている。冷静な自己分析を終える。手持ちぶさたになって蓋を開けると、綺麗な具材の色合いが瞳を刺す。バターで炒めたと思しきほうれん草に、よどんだ黄色の卵焼き、一口サイズに切り分けた牛肉。溶けるオレンジの人参。すべて案外に量が多い。これで夕食が浮いた。やっかいな状況をもたらしてくれたこの弁当も食べられることには変わりない。明は付属した箸を取って、最初の一口、牛肉に手をつけた。
 
 
 
 

 
 
 
 布団の中は安心できる。軽くかさのある羽布団。両手を縁から出して、灯は天井を見つめていた。カーテンの隙間から忍び入る月明かりに照らされて、照明を全て消してあるはずの室内は存外に明るかった。風呂から出たばかり。まだ体の芯が暖かい。
 時刻は十時前。高校三年生の少女が床につくには少し早い就寝時間だったが、彼女が早く眠るのにはもちろん訳がある。新聞が配達されてくる前に、必ず目を覚ます。目覚めて身支度を整え、自ら新聞を取りに行く。ほんの三十分の邂逅。しかし彼女にとっては万難を排しても過ごすべき貴重な時間だった。
 
 まどろみに入る前の数分を彼女は自己反省に費やした。明を――成長した弟を――目にしたあの日から、自分はどこかおかしい。そう思った。どこがおかしいのだろう。自問する。それはきっとあの何とも言えない高揚感だ。他のどんな場面においても感じることができない魅惑的な気分。昔なくした大切なものを再び見つけた。そう思った。
 実際彼女を『発見』に向かわせたものは、自身が所属する家族の目に見えない息苦しさだったかもしれない。祖父、母、叔母、そして灯。もう長い間家族として生きてきた。しかし何かが足りない。満ち足りた生活の中で足りないものを、皆きっと分かっている。灯ももちろん分かっていた。では自分は、足りないものを埋めるために明を求めるのだろうか。
 答えは出ない。そこまで考えたところで彼女は急速に眠りに落ちた。
 
 
 
 

 
 
 
「灯は最近寝るの早いわね」

 父親と娘が早々自室に戻ったため、リビングには二人しか居ない。食事の後かたづけを終えた匡子はキッチンから両手にコーヒーを持って、ソファーでテレビに見入る倖の背後に立つ。十も年の離れた姉妹。幼い頃はほとんど母と娘のようだった二人の関係も、お互いの成長とともに変質する。灯と同じように緩いウェーブの掛かった匡子の髪はまだ四〇を越えたばかり、白髪は一本も見あたらないが、長年専業主婦をしているせいか目の下には緩慢な、しかし重い疲れの蓄積が見える。一方倖のほうは、姉とよりもむしろ姪と姉妹にみえるほど若々しい。首筋にふれるばかりのショートヘアに、化粧が肌の衰えを完璧に隠蔽している。仕事帰り、疲れを覗かせる表情を作ることもある。しかし、その疲労は姉と同質ではあり得なかった。
 
「そうね。姉さんも原因は知ってるでしょ」
「知ってるわよ」
「明くん。灯はもう夢中」
「なにか言いたげな口振りね」

 匡子は妹のために用意したカップをそっと差し出す。そんなことはないと、受け取りながら倖は答えた。
 
「明くん、同居させるつもりなんでしょ?」
「そのつもりだけど、あの子が承知しないのよ。むこうが嫌だって言うんだから、わたしの責任じゃないわ。あのくらいの年の男の子はそうなのかもしれないわね」
「誰も責任なんて言ってないわよ。それに、わだかまりだって、すぐに溶けることはないだろうし」
「わだかまりなんて…。わたしに言われても困るわ。大体あの子が言ったのよ? 勇次さんについて行くって」

 倖はソファの上であぐらをかいて、背もたれに体を預けている。堅苦しいスーツの殻を脱ぎ捨てて、履き古しのジーンズに薄手の丸首シャツに着替えた倖は、その体勢と相まってひどく若く見えた。
 匡子の言葉を無言で聞きながら、彼女は内心考えていた。まだ七歳だった少年に身の振り方の責任を負わせるのは酷なのではないか、と。姉は明らかに、意志を持って明を手放した。腹を括れば二人手元に置くことができたはずなのだ。匡子は財政的にも父親の庇護があり、母親として子供の養育に適任と認められるはずだった。一方夫の方は前科持ち、不規則な生活を送らざるを得ない職業についたばかり。しかし姉匡子は夫に言われるがままに明を手放した。その理由を「子供の意志」に求めることは、姉の罪悪感の発露に過ぎない。だが、それを指摘することで、今現在の安定した生活に波風を立てる気も倖にはなかった。自分たち姉妹が口をつぐんでおけば済む。
 彼女は思い出す。明に会ったのはもうだいぶ前のこと。小学校に上がったばかり、体の大半を覆い隠すランドセルを背負って底抜けの笑みを見せる小さな男の子。その姿からは、今の明を想像することすらできない。灯が折に触れて話すところによれば、明はひょろりと背の高い、鋭い目をした青年だという。ならばその容姿から第一に思い出すことができるのは、今はもうこの世に居ない姉の夫、高江勇次そのもの。
 
(わたしもちょっと早起きしてみるか)

 好奇心と、ほんの少し憧憬の残滓が背中を押す。無言でテレビを眺める姉を横目に倖は決めた。
 
 
 
 

 
 
 
 倖はタバコを吸わない。だから彼女の愛車、赤いロードスターの灰皿はいつも綺麗で、本来の用途から外れてコイン入れに使われていた。低い車高、狭い居住域。女の小さな身体でも二人乗ればひどく手狭に感じる。もちろんオープンカーとして設計されたのだから、迫る幌の天井は仮初めのものでしかない。だが、幌をあけるのはやはり稀だ。助手席で無意識に身を乗り出し、前方の渋滞を歯がゆく凝視する姪を見ていると、こんな時にこそあけるべきなのではないかと思うけれど、急ぐ道行き、路端に車を止めて幌をあけるなどまったくの愚挙だった。
 
「なにも死んだ訳じゃないでしょう? ただの風邪よ、きっと」

 手持ちぶさたの左手でアルミのシフトノブをもてあそびながら倖が口を開いた。ただでさえ白い頬を今は土気色にまでおとしめて微動だにしない灯を気遣ってのことだった。
 
「それはそうだけど、でも…」
「でも、なに? もう、あたふたするんじゃないの」

 それ以上会話はなかった。横目に伺う灯の瞳は真剣そのもので、倖は少し羨ましくなる。自分にもこんな時代があっただろうか。今の彼女に特定の相手が居たとして、若年性の癌かなにか、死病に冒されているというならいざしらず、風邪ぐらいでは見舞いにさえ行かないだろう。三十を過ぎた自分の「相手」となれば、当然社会人、少々の風邪ならおして仕事に向かうくらいで、見舞う暇も休む暇もそう潤沢にはない。だからこそ灯のせっぱ詰まった表情が羨ましかった。
 
 準備万端整えて新聞配達の自転車を待つ灯のもとに現れたのは明ではなかった。長い道を上がってきた疲れからか、ひどく疲れた目をしたその男に事情を尋ねると、明は体調不良で休みだという。なおも深い事情を聞こうと食い下がる彼女に、新聞を手渡しながら答えた青年の瞳は、明と彼女の関係に好奇心をかき立てられていた。
 
「事務所に電話があって、なんか食い物に当たったって言ってましたよ。熱も出て動けないとか。この時期やばいですからねぇ。急に蒸し暑くなってきたし」

 大したことはない。そう言いたげな男の口振りも、灯には慰めにならなかった。昨日昼に渡せずに、下駄箱に置いた弁当。嫌な未来図だ。彼女には心当たりがありすぎた。挨拶もそこそこに、渡された新聞を玄関脇の靴箱の上に放り投げると、門のそばに止めてある自転車に飛び乗った。住所は分かっている。電話帳の住所録に書き留めてあったのを、携帯電話に転記している。今必要なのは、自転車の鍵と、携帯電話、そして時間。
 右足に力を込めて、いざこぎ出そうとしたのを引き留めたのは、普段遅くまで起きてこないはずの叔母だった。
 
「なるほどなるほど、アカリちゃんの手料理は威力あるわねぇ。お弁当から看病への黄金パターンじゃない」
「もう! 馬鹿なこと言わないでください。別にお弁当のせいじゃ…」

 助手席でうつむく姪が倖には愛おしかった。普段物静かで取り乱すことがない灯には、同年代の少女ならば持っているであろう賑やかさ、姦しさが欠落している。天嵩家のどこかよそよそしい空気の中で育った彼女にとって、騒ぐことは悪だったのかもしれない。倖と匡子の父で灯の祖父である征は、およそ謹厳を絵に描いたような性格で、騒がしさをなによりも嫌う。そして、女ばかりの家内に征の権威はやはり大きい。彼が一つ咳払いをすれば皆口を噤んでしまうのだ。
 よく言えば落ち着き、悪く言えば生気のなさ。特殊な家庭環境とともに、そのような灯の性格を最も案じてきたのは倖だった。この年の離れた妹のような存在が同年輩の友人たちにのけ者にされないよう、遊び方を、つきあい方を、しゃべり方を、彼女は教えてきた。だから、もっとも身近に灯を見てきた倖にとって「王女様のような」と形容される灯の雰囲気をあっさりと突き崩す明の存在は興味深い。
 
(いい子に育ってるといいんだけど)

 心内を告げることはない。
 町の中心部を過ぎて車の量も格段に減った細道を、女のロードスターが流れるように走り抜ける。駅を基点にした扇状に広がる公団住宅の入り組んだ道を、建物に大きく書かれた番地数を頼りに探索し、最終的に目的地にたどり着いた。
 
 明の住む団地の棟は、建てられてからかなりの年数を経ているらしく、側壁は雨ざらし、白のペンキがところどころはがれ落ちていた。階段に続く共用の玄関口には掃除もされずに吹き込んだ砂が四隅に溜まって、半ば放置されて錆落ちた自転車とともに独特の寂寥感を漂わせている。
 倖は適当な側道に愛車を止め、停車するのももどかしく飛び出した灯を追って明の部屋を目指す。 
 倖のスニーカーが踏みしめる地面には、くすんだ色煉瓦のタイルが敷き詰められて、背の低い植え込みがその道行きを彩っていた。
 
 夜は完全に開けた。
 
 
 
 

  
  
  
 腹筋が微細に震えている。耳の下が燃えるように熱い。口に溜まった唾液は体内の熱に温められて、粘質のそれに転化していた。一人暮らしをはじめて最初の風邪。自室の真ん中に敷きっぱなしの布団。肩口を覆う掛け布団の布地を汗が濡らす。
 新聞配達店に休みの電話を入れたときから、彼はずっと寝付けなかった。三十分ほどの微睡みと、やけに冷静な覚醒の時間を交互に過ごしている。
 
「ああ……」

 口を開くと乾燥した唇の端が切れて、一条血筋が口内に落ちた。見つめる天井の格子模様は時々迷路に変質して、彼を眠りへと誘う。だがこのとき、もう何回繰り返したか分からない覚醒の一時、なかなか寝付けなかった。
 ベッドサイドに置いた腕時計の針はもうすぐ五時半を指す。父の遺品はほとんど処分していない。名残惜しさもあれば、面倒くさくもある。遺品といったって特に値打ちものがあるわけでもないのだ。必需品の衣服を除けば、残るのは数十冊の本、そして腕時計。ベルトのステンレスは所々傷が付いているのに、フェイスガラスは新品のように輝いている。まだほんの小さい子供の頃、父に尋ねたことがある。「これなに?」と。思い返せばひどく曖昧で難しい聞き方をしたものだ。父は息子の問いかけに答えて言った。これは結婚指輪の代わりなんだ、と。離婚という制度がどういうものかまだ分からなかった明は、それ以上聞かなかった。「結婚ってなに?」などと聞かなかった。幼い明にもそれくらい分かっている。結婚とは『愛し合う二人が一緒に住み、子供を作ること』だ。字面の上では、その辞書から抜き出したような答えが全て。しかし、では『愛し合う』とはなにかと聞かれたら、彼には答えられなかっただろう。今ならもちろん答えられる。愛とは、それがあれば一緒に住み、子供を作ることができるが、なくなれば、子供を捨てることさえ厭わないほど大切なもの。
 
「だからおれはあの人たちと住めないのかな」

 相変わらず中空に視線を放ったまま、彼は口の中でつぶやく。自身の子供っぽい割り切れなさが笑いを誘う。強ばった顔の筋肉がほんの少し動いて、笑顔に似た表情を作っていることを、鏡など手元にない明は気づくことができない。
 
 そして、玄関の呼び鈴がなった。二度短く。一度収まって、今度は扉を直に叩く音。こんな早朝に集金でもないだろう。彼の嫌な予感はよく当たる。
 
 
 
 

 
 
 
「天嵩先輩…」

 重い扉の先に灯が立っていた。薄暗い玄関の先、通路もまた暗く朝の清涼な青をもってしても塗りつぶすことはできない。朦朧とした明の視界にただ一人屹立するもの、天嵩灯は美しかった。深い紺のセーラー服から伸びた白い首筋は冷たそうで、体内の熱にうかされた彼にはひどく魅力的に見える。
 
(アイス食いたい)

 青い顔で心配そうにのぞき込む彼女を後目に、彼はくだらない感慨を抱く。
 
「明! ねえ、大丈夫なの?」
 
 灯が一歩踏み出した。手を伸ばせば肩をつかむことができる。灯が入り込んだそこは明の私的領域。鼻が詰まっているお陰で彼女の香りにふれることはかなわない。
 
「えっ? ああ、大丈夫です。なんとか。最近風邪流行ってるんですかね」
「本当にごめんなさい。昨日のお弁当、置いたのは…」
「いや、弁当は関係ないです。うまかったですよ、あれ」
「あ、ありがとう。でも、ごめんなさい。あれだけ時間経ったらお弁当痛んじゃうことくらい分かっていたはずなのに。見境なしにあんなこと」

 スカートの上で両手を握りしめて俯く灯を明はぼんやりと眺めていた。こうしてみると、やはり灯は小さかった。小学生のころは自分よりも遙かに大人だと思っていた。しかし、よくよく考えてみれば、年の差は僅かに一歳。十七,八にもなれば、身体も男の方が大きくなるに決まっているのだ。片手で容易に包み込めそうな少女の握り拳は、彼の心中に複雑な感慨を呼び起こす。
 
「わざわざ見舞いに?」
「ええ。……不味かったかしら?」

 上目遣いに自分を伺う灯の姿が、不意に身近に感じられる。喉の奥が熱い。自分は今かなり弱っている。ここに至って自覚した。例えば眠る自分の枕元で、額に手を当ててくれる人がいれば。それは取り返しのつかない甘えと分かっていながら、空想は甘美だった。

「いや、そんなことないですよ。ありがとうございます」

 布団を剥がれ、外気が寒気を助長する。身体は内部から冷凍鶏肉のように重たくなっている。脳の芯は揺れる。このまま姉の上に覆い被さって、手を引かれ布団に導かれ、ゆっくりと寝かせてほしい。あの柔らかく、ひんやりと冷たい手のひらで撫でられたい。
 これはいよいよ本当に弱っている。それを自覚し、また良しとしていた。もし灯の一言がなければ、このまま明は行動を起こしていただろう。

「もう、他人行儀な挨拶はやめなさい。家族なんだから当然でしょう」

 突き崩されかけていた少年の城壁を再び再構築したものは、だからこの言葉に相違なかった。『家族』。灯の年長風を吹かせた台詞に他意はない。ないからこそ、彼の琴線を強く弾いたのかもしれない。
 家族とはなんだ! なにが家族だ! 唐突にわき上がる感情の暴風を押さえるために彼は必死だった。
 
――おれの家族は親父だけだ。

 口に出すことはできない。なにも灯が悪いわけではない。運命と呼んでもよいような展開によって必然的に分かたれた。そこに子供たちの意志は介在する術を持たず、ただ流されていた。しかし。明の苛立ちはきっと、他人に説明することができないような支離滅裂なものだった。
 
(この女は、『向こう側』の人間)

 こちらとあちら。境界線などどこにもないはずなのに、薄い衝立を後生大事にもっていなければ堪えられない。衝立を蹴倒して向こう側に進むことは、父親の躯を捨て置いて行くことに他ならない。
 高江明には縁者が居ない。高江家最後の人間である。北陸の漁村で細々と生きてきた高江家。栢の大地主で、明治から産業界の一角に地歩を占めた名門の長男ではない。小舟に揺られてその日暮らしの高江家が生んだ勇次の一人息子であった。
 
 玄関に生えた潅木のように、ただ明は突き立っていた。きつく閉じた唇の端、先ほど切れた部分が再び開いて、どろりとした血を一筋、顎に垂らした。
 灯もまた彼の突然の変化に戸惑う。なにが悪かったのか。弟の纏った空気が一瞬にして塗り替えられたのだ。何かがある。二人の距離を隔てる何か。それを理解できない限り、この一歩は決して縮まらない。尋ねるべきなのかもしれない。何が問題なのか、そう口にしてしまえれば。ひょっとしたら、あっさりと氷解するくだらない行き違いなのかもしれない。分かっていながら灯は後一言、もう一言を口にすることができなかった。
 
「ほらほら、こんなところでお見合いしてないで。早くうちの中入りなさい」

 二人の硬直を解くことができたのは、だから第三者、一歩下がって姉弟の邂逅を眺めていた倖の一言だけだった。灯は我に返ると、改めて明を見上げた。
 
 少年の身体がぐらりと揺れて下駄箱に寄りかかる姿を、スローモーションのように見ていた。
 
 
 
 

 
 
 
「高江が風邪って珍しいよね」
「そういえばそうだな。あいつ皆勤賞ペースだったし」

 午後一番の退屈な授業のさなか、目の前に座る孝太郎に静が声を掛けた。窓際の列にぽっかりと開いた空席に目をやってみる。確かに珍しいことだった。新聞配達という滅多に穴を開けられないアルバイトをしているからか、明が学校を休むことはほとんどない。彼が休んだのは、父親が死んだ後、忌引きの一週間だけ。
 
「昨日はいろいろあったから、いわゆる『心労』ってやつじゃねえの?」
「ほんと、あり得ない。天嵩先輩といつ知り合ったんだろ、あいつ」

 昨日の怒りが収まらないのか、静はさも不快そう吐き捨てた。そんな彼女の態度が孝太郎には滑稽に思えるのだ。静は誤解されがちな容姿をしているが、芯のところではかなり純粋な性格をしている。合コンだなんだと騒ぎながら特定の相手と付き合ったことがないのも知っている。その理由の一端に明の存在があるのかどうか、それは分からないが、少なくとも関心は持っているのだろう。
 中学時代から女には事欠かなかった孝太郎にとって、高校時代の恋愛というものが、その実友人関係の延長でしかないこともよく分かっている。身体だけ大きくなって、性交渉を持つようになっても、それが愛かと問われれば言葉に詰まってしまう。彼自身が経験としてもつソレは、自らの立場を『大人』に擬するための通過儀礼に過ぎなかった。相手の女を組み敷きながら、常に自分が『大人』であることを確認している。快楽ならば自慰と代わりはしない。妊娠の心配もない代替手段とソレを隔てるものを一般的には愛だの恋だのというのかもしれないが、孝太郎はあいにくその感触に触れたことがなかった。
 ハンバーガー屋で時間をつぶし、ゲームセンターを彷徨き、カラオケに行き、金があればホテルに行く。それはそれで素晴らしいことなのかもしれないが、隣を歩く女が自分の『恋人』なのかと問われれば、それもまた答えに窮する。どこかおままごとじみた空気を感じるのだ。ブラジャーを外す手つき。ベッドの感触。時々湿った空気。女の股の間に入り込んだ右手。シルバーのファッションリング。校則ぎりぎりまで色を抜いた髪。それはそれで、孝太郎の世界。カノジョ。そう発音する自分が気恥ずかしいのも自覚している。 だからこそ、一番仲のよい友人、明に興味があった。明には、孝太郎のような『世界』がない。ファッションにも異性にも興味がないらしい親友は、いつも当たり障りのないことしか言わない。話を振れば付いてくるし、時々は自分から会話のネタを振ることもある。――イイ奴。
 明を評するならば、その一語で済む。高江明はイイ奴だ。平坦な性格をしている。だが、気を抜いたときに時々見せる気を抜いた表情が、それだけの人間でないことを示していた。明には表情がない。そしていつも疲れている。むしろ疲れこそが表情といってよかった。 前に一度、カノジョの友人を紹介しようと持ちかけたことがある。明は可も不可もない容姿をしていたし、その柔和な雰囲気も悪印象を与えるものではなかった。『今フリー』だというカノジョの友達もきっと気に入るはず。しかし明は言を左右して結局有耶無耶にしてしまった。いわく、カノジョほしいけど、無理っぽいよ。と。何が無理なのか、明はそれ以上語らなかった。孝太郎はそんな煮え切らない友人に、童貞はこれだから、と笑い掛けた。
 その一件を思い返すなり、彼は気恥ずかしさを隠しきれない。自分の言葉を受けて答えた明の台詞を連鎖的に記憶から掘り返す。
――いつかね。今は無理だなぁ。
 何気なく流した返事の意味に気が付いて、孝太郎の優越感は崩れた。明には『大人』であろうとすることになどなんの意味もなかった。彼は否応なく『大人』にさせられていた。唯一の肉親が居なくなり、一人で生きていかなければならなくなった明は、女と身体を合わせることで自分の成長を確認しようと躍起になっている自分よりも、遙かに大人だった。むしろ子供であることを望みながら、大人にならざるを得なかった男の顔をかいま見てしまった。
 すると明の行動全てに意味が見えてくる。彼は無軌道なことをしない。言葉を選び、感情を殺し、常に自分のポジションを意識している。リスクを計算している。年相応のはしゃぎ方にさえ、装っているところがあるのだろう。
 
 一度でいい、明と心の底から馬鹿話をして、笑いあいたい。そう思った。ならば自分と同じように、静もまた、明の隠された半面に気が付いていてもおかしくない。口には出さないものの、態度の端々で明を意識している静の態度は、分かってみればそう不思議なものでもなかった。彼女もまた明に触れて大人になりたいのかもしれない。
 
「見舞いとか行ってみる? 学校終わったら」
「あんた高江の家しってんの?」
「遊びに行ったことあるし、知ってるぞ。行く?」
「どうしよっかな」

 言葉を濁す彼女の態度に、彼は笑い出しそうになる。
 
「ダルイなら俺一人で行くけど?」

 だめ押しの一言。静は来るに決まっている。返事が返ってこなくても、彼女は絶対に付いてくるだろう。それは確信に近かった。
 
 
 4-3に続く
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Comment

にしつかさ : 2005-01-25(Tue) 22:33 URL edit
どうもです。TEXT版、私の場合、完結したときまとめてあると、読むのに便利だなーと思うのです。光について、いつも楽しみにさせてもらってますので。ではでは。
笙司眞一 : 2005-01-27(Thu) 00:21 URL edit
毎度お読みくださって、ありがとうございます!
やっぱりTEXT版は完結してからのほうがいいのかも知れませんね。その前に、HTML版でもう少し読みやすいレイアウトのものをUPしていこうと思います。
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