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光について 2

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2004-12-17

光について

長くなったので分割。







 天嵩灯は誰かの母でもなく、姉でもなく、妹でもなく、恋人でもない。彼女は天嵩匡子の娘であり、それ以外のものではありえなかった。八歳の時に離ればなれになった父親とはついぞ顔を合わせることさえなかった。
 少女にとって、父にもっとも近しい人間は祖父の征であったが、それは彼女が生きる社会の要諦のうえで擬似的に固定された関係に過ぎなかった。祖父は彼女に大層な愛情を注いでくれたが、父親という存在になるには何かが欠けていた。五体満足でかくしゃくとしてはいるものの、征の肉体は老いていて、母や灯自身のように、女の柔いそれに似ていた。征は彼女を覆い隠してくれるが、最終的に全てから護ってくれるような存在ではない。人間という生き物は、肉体によって形成されるものではなく、その社会的な位置――換言すれば、地位によって自らの生存を確かなものにする生物なのだと知ってからも、幼い頃に刷り込まれた恐怖は去らなかった。

 少女がまだ幼かったころ、恐慌に近い周囲の暴力的な嵐にさらされたことがある。ひっきりなしに鳴り続けるドアベル。細く開いた扉の隙間から差し出されるマイク。カーテンの陰に隠れて覗き見た窓の外に密集する野次馬。
 灯は今でも覚えている。直接的な暴力を振るわれることはなかったが、心の多感な時期に足を踏み入れつつあった八歳の少女には、それはひどい体験だったかもしれない。機嫌が悪いときにはこづき回したこともある弟の体を強く抱きしめて、彼女は耐えた。
 一つしか年が違わない弟。体は灯のほうが大きかった。しかし、すでに「男性」としての鋳型にはめ込まれ、そのように教育されていた少年は泣かなかった。「泣くこと」は敗北を意味し、敗北は地位の低下を意味する。まだ短い小学校生活の中で、彼はその規範を身につけていた。「男は泣かない」などという気取ったせりふではない。「泣くこと」は直接、自らの立場を危うくさせる行為なのだと彼はもう知っていた。
 脂肪が筋肉に変わる前の柔らかい体をできる限り広げて、彼は立っていた。日頃「下位」の存在として位置づけていた弟の変化を彼女は両腕の中で初めて感じたのである。
 
 





――あのころの明はまだちっちゃかったのよね。わたしよりも背が低かった…。

 弁当箱に切り分けた卵焼きを納めながら、灯は回想の羽を伸ばす。タイマーでセットしてあった炊飯器がアラームをならして、ご飯が炊きあがったことを知らせてくれる。長い髪をゴムで一本にまとめ、彼女は黙々と手を動かしていた。長い料理用の箸を動かして、ほどよく焼いたウィンナーを格納する。炊飯器の蓋をあければ、もうもうと湯気が立ち上がり、今朝の靄を思い出した。
 鋼のような体をしていた。太い首筋。大きな手をしていた。昔見下ろしていた男の子を、今は見上げなければならない。視線の高さを水平にしようと思ったら、彼に屈ませる必要があるだろう。
 女子の平均からすれば、灯は発育が悪い方ではなかった。確実に「女性」として育っている。鏡を見ればそう感じることもある。意識したのは中学生の時だった。ついぞ経験したことのない憂鬱と頭痛に苦しめられて、不安定な数ヶ月を過ごした。体の変調は初潮を迎えたときから意識してはいたが、それが強烈に襲ってきたのは二年生にあがってから。自分のものであったはずの肉体が、他のなにかに作り替えられていく感覚。盛り上がった胸や、血を流す下半身は、自分が何者に「なる」のかを雄弁に語りかけてくる。
 性別分化を理解しない幼児期から、思春期に入り自らの性を意識したとき、自分と「異なった」存在への興味が芽生える。だが、灯にとって興味の発現は起こらなかった。彼女の周りに居たのは、離婚して以来一向に浮いた話のない母と未婚の叔母、そして男性をゆっくりと失いつつある祖父である。学校に行けば様々な異性体を見ることはできたが、彼女には、そこに身をゆだねるに足る存在を見つけだすことができなかった。本質的に内向していた彼女の精神は、外界と出会うことを恐れていた。自分を包んでくれる存在、そう言い換えても構わない。まだ未成熟の少年たちは本能に埋没していた。際だって美しい容姿は彼女の存在を至上の獲物として彼らの瞳に描かしめた。狩りの獲物。グロテスクな潜入見から解放されることはなかった。
 結果として灯は、中学高校を通して男と無縁の生活を過ごした。浮いた噂の立たない彼女はいろいろと下世話な憶測の中心になったが、同性愛的傾向もまた彼女にはない。祖父の言葉に唯々諾々として無為の日々を送る母親を身近に眺めながら、嫌悪とは言えないまでも、微妙な齟齬を感じていたのだ。
 
 去年の春、見知った名前を、廊下に張り出された新入生クラス表に見つけてから、彼女はほんの少し変わった。

 高江明
 
 昔自分も名乗っていた名字、高江に、昔舌足らずに呼んだ明の名。忘れていたわけではない。鮮やかな記憶の中に、そして知識の中に、自分には弟がいることを知っていた。だが、はっきりと「意味」を理解したのは、そのときが最初だったかもしれない。掲示では、明は一年七組に所属しているという。その足で七組に向かった。ドアの外から覗く。
 新しい環境に放り込まれた目新しさからか、無秩序の中にごった返す教室に、一際目立つ背の高い少年の姿があった。知り合ったばかりの級友に「高江」と呼びかけられて、答える少年から、灯は目を離すことができない。遠目に写る少年は男の顔をしていた。自分と同じ薄い唇。自分と同じ軽くウェーブした髪。しかし、面影をどこかしら残しているように見えるパーツが集まれば、それは紛れもなく男の顔だった。
 
――ああ、あれがわたしの弟なんだ。

 心の中でつぶやいていたかもしれない。今すぐ中に入り、話しかけたい。その欲求は狂おしく灯の胸中を圧迫する。自分は今、なにか忘れてしまったものを取り返そうとしている。薄っぺらい男たちの好意ではない。確かにある、しかししっくりと噛み合わない女たちの友情ではない。もっと本質的な何か。スカートを握りしめる手のひらが、少年に触りたいと熱望していることに気がついた。あの頬に触ってみたい。幼い日、怯えて抱きしめたように、彼の体にしがみつきたい。そう思った。あのころとは違う。灯の体はもはや、明をすっぽり包みはしない。むしろ明という巨木に張り付いたコアラのように…。
 だが、もちろん灯は黙って教室を後にした。その欲望はまだ熟し切っていなかった。地に落ちて木の芽となるには、まだ生硬に過ぎたのだ。 







 拭ってやった男の汗がまだ指先に残っているように感じて、彼女は人差し指を舐める。しかし味蕾に達するのは先ほど切れ目を入れるために押さえていたウィンナーの油だけだった。空想に取り込まれた彼女は、自分の姿が他の人間に見られていることを意識もしていなかった。だから背後から彼女に届いた言葉に危うく手に持った弁当箱を取り落としそうになる。
 
「アカリ、いよいよやる気だ」

 それは叔母の倖が放ったものだと分かり内心の動揺が静まっていく。
 
「驚かさないでください。倖さん」
「かわいいことしちゃってぇ。いよいよこれは色気づいたな」
「そんなんじゃありません!」
「いいのいいの。路線は悪くないわよ? 男って単純だから。よく雑誌に載ってるじゃない? 手料理が利く! みたいな。本当なのよ、あれ」

 灯は叔母を綺麗だと思う。母の年の離れた妹。今年三十を越えたばかり、都内の編集プロダクションでファッション雑誌のライターをしている倖から、灯はいろいろなことを学んだ。ファッションの基礎から化粧、恋愛の機微に至るまでである。生来社交的な方ではない灯が同性の群の中で一定の地位を保った生活をできるのは、だから叔母のもたらすいろいろな知識ゆえと言っても過言ではなかった。
 
「だからそんなんじゃないんです」
「分かってるわよ。灯はそんなのいらないもんね。普通に気に入った男のところに行って『わたしと付き合わない?』って言えばいいのよ。大体靡く」

 出勤時の華麗なスーツ姿とは打って変わってだらしないスウェットシャツの上下を着込んだ倖を灯は軽くにらむ。
 
「で、どんな子なの? お姉ちゃんに教えてよ。鑑定してあげる」

 ねらった獲物は逃がさない。そんなオーラを全身に負って倖が近づいてくる。彼女に見られないように灯は手早く二つの弁当箱に蓋をし、用意したバンダナで覆った。
 
「結構ですっ!」

 倖の興味が下世話な好奇心から出たものではないことは灯にも分かっていた。叔母としてよりもむしろ姉として灯に接してきた彼女は、少女の危うい内面を朧気ながら理解している唯一の人間かもしれない。毅然として誇り高い、どこか王女様のようなその外見に比して、少女の心は時々ひどく幼く見えるのだ。変な男に引っかかって振り回されるくらいなら…。ランドセルを背負っているころから灯を見守ってきた倖は、だからこそ自分に彼女を守る責務があるように感じていた。
 
「まあ良いけどね。一つだけ、お姉ちゃんからアドバイスです。いつも言ってるけど、まず冷たい男を選びなさい。八方美人はだめ。変に社交的なやつは駄目。とにかく静かなやつ。大体明るい男っていうのは、こっちがピンチになってもヘラヘラ笑ってるだけ。お姉ちゃんの豊富な経験がそう告げてる」
「はいはい。分かってます。その次になんて言うかも分かってます。『恋愛は戦いだ。常に惚れさせろ』でしょ?」
「そう。よく覚えたわね。灯は優秀な生徒だわ」
「でも、残念でした。このお弁当はそういうのじゃないんです」
「えー…。女子校ノリの女の子内輪試食会なの?」
「いえ、そういうのでも」
「じゃあどんなのよー」
「……弟に、です」

 畳みかける倖の言葉がリズムになって、灯はあっさり反応してしまう。倖は一瞬黙り込んでから、もう一度口を開いた。しかしその口振りにはもう、さきほどまでの軽快さは姿を消して、代わりに慎重な色がのぞいていた。
 
「…明くん?」
「はい」
「ふうん。そうよね。『姉として』『弟を』構ってあげたい年頃かなぁ、灯も」

 姉、弟。この二つの言葉は、倖が自身予想したよりも強く響いた。
 
「そういうわけでもないんですけど。えっと、わたし、もう支度しなくっちゃ!」
「はいはい。行ってらっしゃい」

 できあがった大小二つの弁当を胸に抱えて灯は台所を小走りで出ていった。倖は食卓の椅子に腰を下ろすと、ぼんやりと膝を組んでそれを見送った。

 春になったとはいえ、五月の朝はまだ少し冷気の欠片が残っている。彼女は肩に寒気を覚えて、カーディガンを羽織ってこなかった自分の行動を後悔した。
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Comment

U : 2004-12-19(Sun) 22:28 URL edit
良いですね、うん、良い! ああ、続きを所望して宜しいでしょうか。挿絵はかってに冬目景調で保管されておりますw
笙司眞一 : 2004-12-21(Tue) 00:34 URL edit
感想ありがとうございますー。
続き、お望みくださって嬉しい限りです。ガンバリマス!
挿絵は・・・いいですね。いつか挿絵を頂けるようなお話を書けるように精進します。
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