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2004-12-17

光について

先日書いた超姉小説。sagak さんのブログ習作を真似てぽつぽつ出してみる。
超姉といってもスクランSSではありません。一次創作です。




 chapter one


 高江勇次は有名人だった。テレビに出たこともあるし新聞に名前が載ったこともある。番組改変期の穴埋めに放映される特番で取り上げられるような「元」有名人ではあったが、有名であることに変わりはなかった。
 もう今から10年も前。ある都市銀行で発生した横領事件。2億円。被告とされた男に覚えはなかったが、気がつけば証拠は順調に発見されていた。やがて適切な刑を宣告され、執行猶予を貰って檻から出てはきたものの、数ヶ月の拘留を終えて彼には帰る家がなかった。妻はとうに離婚を成立させて実家に戻り、幼い二人の子供もまた母方に引き取られていた。

 まじめ一辺倒な男だった。女手一つで育てられ、家族というものに幻想を抱いていた彼は、だから、職と信用を失って最後に望んだのは子供である。前科という輝かしい経歴のお陰で再就職は容易ではなかったものの、必死の努力が功を奏してか、最終的に小さな運送会社のドライバーに落ち着いた。都心の高層ビルや清潔なオフィスは、もう遠い霞の先にあった。収入はおよそ銀行勤めの三分の一に落ち込んでいたけれど、定職を得たことで、子供一人引き取る資格はできたのだ。彼は二人の子供たちの片割れ、息子である明の親権を取り戻し、人間二人を生かすには十分な広さをもった――しかし三人では狭すぎる――小さなアパートの一室で新しい生活を始めた。息子の将来を考えれば、大層な金満家である元妻の実家に置く方が賢い選択であることはわかっていた。しかし彼の利己心はあくまで息子を求めた。息子が彼に何かを与えてくれるわけではない。男は、自分自身が何かを与えることを望んでいた。折れてしまった自分の精華を嗣いでくれる唯一の存在と、彼は息子を見なしていたのである。
 
 
 




 高江明は一七歳になった。高校入学から一年間、新聞配達に行くための早起きはもはや習慣になっていた。刷り上がってまだ数時間。インクが乾いたばかり。新聞の束を満載した前カゴの挙動に気をつけながら、彼は自転車のペダルを渾身の力で踏み込んだ。
 
 金山町は坂の多い町だ。駅を最底部としてすり鉢状に街区が広がっている。彼に与えられた配達ルートは新聞店のある駅前から始まり、ひたすら東に向かって坂を上っていく。
 中規模の車道に並んだ家々に新聞を放り込みながら、朝靄の中を走った。口の中に空中の霧が飛び込んでくる。爽快感はない。登りは地獄の東坂。
 そんな坂道のヒルクライムを繰り返しているだけあって、少年の体は同年代の少年達と比べて引き締まっている。裾に汚れがついた白のウィンドブレーカーを透かして、浮き上がる大腿筋が筋糸一本に至るまで脈動する。緩い校則のお陰でのび放題の髪にはゆるいウェーブが掛かっているが、平素目立たないそれも、五月の濃厚な湿気によってカールの度を増していた。
 
 早朝の四時。彼の鈍行自転車を追い越しゆく車はほとんどない。町は未だに半ば暗がりの中にあって、透けた月明かりがまだ居場所を残している。

 すり鉢の頂上、隣町との境に大きな屋敷がある。延々二キロ、配達行の終着点であるこの家を目印に彼は毎日ペダルを漕ぐ。破裂しそうな肺は、ぐるりと低木の生け垣に開いた巨大な門の前でのみ休息を許される。耳の中でドクドクと脈打つ鼓動音とペースをあわせ、ペダルを踏みしめてゆく。額に浮いた汗が、首を振った折りに地面にまき散らされる。一回、二回、三回、四回。口の中で数えながらペダルを回し続ける。無心に回すことこそ、唯一時間を忘れる術であることを彼は知っている。灰色から鮮やかな青に変わっていく空をみることもなく、そして明は大門にたどり着いたのである。

「天嵩」

 門に掲げられた表札は古ぼけていて、家の格式を無言のうちに伝えてくれる。地面のアスファルトはいつのまにか門の周囲に敷き詰められた石畳へと変わって、公道と私有地の境を明確に示していた。
 履き潰したスニーカーのソールが、濡れた石畳とこすれて小さな悲鳴を上げる。世界が全て、海中に没してしまったかのような感覚。頬に張り付いている湿気は湿気の度を超して、液体に変わる。少年の首元から沸き上がってくる体温に熱せられた空気が、顎を通ってこめかみへ届いた。

 彼はスタンドをたてた愛車から一束、新聞を取ってポストへ向かう。ウィンドブレーカーのジャケットを数度引っ張って外気を取り入れると、空いた手で額の汗を拭った。

 門をくぐったところで不意に背中に気配を感じて振り返る。この過敏さ。彼は内心の自嘲を押さえることもできずに低く笑った。
 泥棒の子供。
 そう陰ながらいわれたことは何度もある。幼い頃にはむきになって憤慨し、声なき声を押さえるために喧嘩もした。自分の挙動に注がれる警戒の目。軽蔑の目。奇異の目。気がつかないほど鈍感ではない。高校に入学し、上位の成績を収めるようになってから静かになってはいたものの、「それ」が霧散したと信じるほど馬鹿でもない。気の置けない友人も数人いるけれど、明と彼らを峻別する線は必ずどこかにあって、それを跨ぐことは許されない。それはほとんど被害妄想に近い心象なのではないか。そう自問自答してみるが、結論は出ない。一週間前から一向に頭を去らぬ不気味な霧のようなものを振り払おうと、瞳のところまで掛かった前髪を後ろになでつけた。

「性質は遺伝しないっつーの」

 ついでに口を衝いて出たつぶやきが存外に響く。木霊は瞬時に広い天嵩家の庭先に拡散し、肌を刺す冷気を震わせた。

「そうでもないんじゃないかしら」

 やはり思い過ごしではなかった。背後から聞こえる凛とした声に振り向く。女の声だ。男とは違う、高純度のガラスのように透き通っている。明は再び苦笑を貼り付けた。とっさに使える表情のストックはそんなに多くはない。

「天嵩先輩、朝早いっすね」

 彼は努めて明るくそう言い切ると、手に持った新聞をかざした。
 明のすぐ後ろに少女が立っている。彼の一八〇センチを越える長身と比べれば、少女はひどく儚げに見える。細い首筋。朝靄のせいか、しっとりと濡れた長い黒髪を背に流して、滑らかな肌にはしわ一つない。登校時刻までおよそ三時間はあるというのに、一分の隙もなく濃紺のセーラー服を身に纏っている。控えめに開いた胸元、大きな襟を縁取る二本の白い線、そして、赤というより紫に近いスカーフが下がっている。

 天嵩灯は美しい少女だった。陶器のような肌と黒く光る大きな瞳は潔癖で、この世すべての汚濁を拒否しているようにみえた。彼女の白は、服の紺を黒に見せる。強い対比。薄い唇に紅は引かれていないはずなのに、頬の白から浮かび上がるそれは桃色に輝いていた。
 
 手入れされた爪をそろえて女の手が新聞を受け取る。重く沈殿した空気の中を泳ぐように、その手は宙を漂っていた。

「おはよう。明」
「おはようございます。しっかし、先輩いつも朝早すぎですよ」

 自然な仕草で灯と距離をとろうと一歩後ろに下がる。すると彼女は一歩前へ進み出る。距離は依然変わらない。

 この感覚が彼はいやだった。灯は学校でも有名な美人。全校通じて知らないものはほぼいない。女生徒のゴシップなど関心を持たない明だが、クラスメイトで席も近い女子が毎日のように灯の話をするものだから、いつの間にか脳裏に刷り込まれていた。
『灯先輩人形みたい。マジカワイイ! 超カワイイ!』
彼の机をあたかも自分の席であるかのように占領しつつ、同級生の少女は叫ぶ。この『ぐっとくる』心情をとにかく誰かに伝えたいのだと彼女は言った。中途半端に色を抜いた髪が、じゃらじゃらストラップをくくりつけたピンクの携帯によく似合うクラスメイトのはしゃぎ様から察するに、きっと灯はテレビのアイドルのようなものなのだろう。彼はそう推測している。
 事実、天嵩灯には現実感といえるものが欠けている。ニキビ一つない肌、色素のむらを発見することもできない。よく手入れされた体と、汚れない魂。彼女を包むパッケージは、ハイソなファッション雑誌を飾る女優のように完璧で、CGかなにかで作り出された創造物に見える。大きく緩く弧を描く髪はよほど高級な美容室でセットされているのだろうと思っていたけれど、クラスメイトの情報によれば、どうやら生まれつきであるらしい。くっきり自己主張をする細い鼻梁と質量すら感じさせる瞳の黒が個々の印象を統合して、人形のように見えるというならば、確かにそう見える。
 
 空想に浚われていた彼の意識は、不意に灯の顔に浮き出た笑みによって現実に引き戻される。「みとれる」という状態があるならば、きっと今がそれなのだ。
 
「そんなに早くもないのよ。明が来るのが騒々しいから、いっつも目が覚めちゃうの」

 冗談めかしてそんな戯れ言を口にする。もちろん事実であるわけがない。彼が出会う少女はいつも完璧に制服を着こなして、眠気の一筋さえ感じさせない。
 
「すいません。今度から気をつけます」
「いいの。冗談だから。本気にしないでね。ね、まだ朝御飯食べてないでしょ? 何か食べていかない? 昨日の夜はわたしが作ったのよ」

 彼女は明の配達経路の子細さえ知っている。天嵩家が配達行の最後であるならば、多少引き留めてもかまわない。それがわかっているからこその誘いだった。
 
 答えない彼にじれたのか、彼女の指がいまだ汗が引かない少年の額をさっと拭った。ほかの女がやればたやすく媚態に堕してしまう仕草も、灯の手に掛かるとほのかな優しさを感じさせる。平素精巧な蝋人形のように佇む灯が見せる、一瞬の「生き物らしさ」を独占しているにも関わらず、明はさしてうれしいとも感じなかった。
 
「そういう訳にはいかないですよ。学校の準備あるし」

 反射的に一歩後退する。
 
「明…」

 その口調に明確な拒絶を感じ取ったらしい。彼女の息をのむ音が、はっきりと彼の耳に届いた。空気が食道を抜けて肺に至る。目の前で曖昧な笑みを浮かべている女にもピンク色の内臓がある。自明のことといいながら、気づかされる度に膨れ上がる欲情を必死で押さえた。空腹、疲労。こんな時、体は自動的に性欲へと向かう。
 この少女に給仕のまねごとをされたいと願う男はごまんといるだろう。だからこそ、彼女にそうさせる自分の優位が明には心地よかった。
 しかし、彼女の誘惑は突っぱねなければならないものだ。子供っぽいひねくれ具合とわかりながらも、灯の前に出るといつも素っ気ない態度をとってしまう。
 
 なぜだろうか。それは疑問ですらない。明にはわかっている。灯は決して自分を見捨てない。どんな態度を取ろうとも、決して分かつことのできない絆で二人は結ばれていた。
 
 天嵩灯は、高江明と血を分かつ姉なのだ。
 
――だから、許せない。

 だらりと垂らした両の拳をきつく握り直し、彼は唇を引き締めた。明の心象の移り変わりに気がついたのだろうか、灯の笑みは一層弱々しいものになって、今にも崩れ落ちそうなそれに変わる。
 
「まだ怒ってるの? お姉ちゃんのこと…」
「怒ってないですって。怒るようなことなんてないじゃないっすか」

 あ、泣くかな。
 ぎゅっと瞳を閉じて肩を震わせる少女を見守る彼の視線は意地悪く、嗜虐的といってもよい色合いを帯びる。七年も離れて暮らせば、しかも多感な幼時を離れて生きれば、肉親としてのすり込みなど消え去ってしまう。だから明にとって、灯は一面の他人であった。しかし、もう一方で、社会が頸城する秩序のフレームは、灯を姉として「認識」し、その関係にふさわしく「振る舞う」ことを要求する。
 結局のところ、彼が感じる苛立ちは、二人の間にある不明瞭な関係性に根ざしていた。「悪意」と「好奇」は少年が物心ついた最初からもっとも親しい友であった。四六時中顔を合わせるこの親友とのつきあい方は心得ている。無視するか、追従するか、反抗するか。相手の強さに合わせて使い分けてゆけばよい。また、同情や憐憫のような生ぬるい感情ならば、うまく利用すればよい。
 では、灯と自分の関係において、適応されるべき感情はなんなのか。灯もまた「泥棒の子供」、いわば同士である。しかし、彼女は一方で資産家のお嬢さんでもあった。大金持ちの「一人娘」でありながら「泥棒の子供」であることは不可能なのだ。灯にだって陰口の一つや二つ、耳にすることはあっただろう。だが、彼女はそういった有象無象をシャットアウトする衝立を与えられていた。誰も表だって彼女を馬鹿にすることはない。年月の中で風化していく醜聞から解き放たれるように、彼女は素晴らしい生活を送っていることだろう。

 翻っておれはどうなんだ。
 アルバイト一つとったって父親の過去を理由に断られるじゃないか。彼はイヤな記憶を不意に掘り返した。コンビニエンスストアの店員募集に応募すれば、面接に出た店長はあからさまに訝しげな顔をする。四〇すぎ、風采のあがらない小男は、その視線を通してこう告げていた。「店の金持ち逃げするんじゃないか」

 苦しい生活だが、誇りのようなものは確かにあった。
 明の目に映る父親は立派な男だった。酒もたばこもやらない。一日の重労働を終えて疲労困憊帰ってきても、当たり散らすようなことはしなかった。テストで百点を取れば大げさにほめてくれたし、好物のラーメンも作ってくれた。たまの休日には遊園地にだって連れていってくれたのだ。級友に言われた悪口が原因で大立ち回りを演じた時、学校に呼び出された帰り道、口元を真一文字に結び、彼の頭を撫でた父親の大きな手のひらを今も覚えている。
 父親の乗った配達用の軽トラックは、車線をはみ出して来た居眠り運転の大型トラックと正面衝突して、明のもっとも近しい肉親は即死した。葬式など出すことはできなかった。配送センターの所長が厚意から埋葬の手続きを済ませてくれた。
 翌日弁護士を名乗る男がやってきて、彼の親権が母親に移ったこと、母親が同居を希望していることを告げた。恨みがあるかといわれれば、ないとはいえない。しかし、まだ定職につかない自分が高校に通えていて、アパートに住んでいられるのが母親のお陰であることを理解しないほど子供でもない。だから彼はいつものように――どうにもならない状況に置かれたとき、いつもそうしたように、薄笑いを浮かべながら「感謝」することに決めた。
 
「じゃあ、おれ行きますね」

 気がつけば吐き捨てていた。半ば以上八つ当たり。灯とふれあうとき、いつも彼は敗北感に打ちのめされる。彼女には打算などないし、縺れた感情もないだろう。そういう風に育ったのだ。母親だってよかれと思って彼に手をさしのべたのだろう。父親を親権者として選んだとはいえ、憎まれる切っ掛けを与えてくれるような交流すらなかったのだ。ならば一人空回りして、居もしない敵を憎む明は滑稽であったかもしれない。
 
 登りは地獄の東坂。
 下りは少年の体に爽快感をもたらす。胸元まで閉まったウィンドブレーカーのジッパーを下げて、腹の中に冷たい空気を取り込みながら、積載物のなくなった自転車を下らせていく。天頂まで綺麗に抜けた青空から、朝靄を掻き消して痛烈な陽光が降り注ぐ。
 
 急ぎきびすを返した彼には灯の言葉は聞こえなかった。
 
「わたし、決めた」

 少女は確かにそう言った。誰にも聞こえないように。しかし、明にだけ届くように。 







「ああ! 灯先輩マジカワイイ!」
「最近その台詞、もう決まり文句になってるよな」

 熱田静の熱烈な――ほとんど雄叫びといってもいい――叫びを受けるのは、坂下孝太郎。明が所属する二年七組のクラスメイト。
 日当たりのいい窓際の後ろから三番目まで、クラス垂涎の一等地である。そして明と静、孝太郎の三人こそが見事一等地に居を定めた幸福者だった。窓際一等地はその立地上、教師権力の及ぶこと最も弱い地域で、絶え間ない監視がなければたやすく無法地帯になってしまう可能性を孕んでいる。そのため、クラス内に半独立勢力を作りたくない為政者たちの執拗な巡視を受ける。だからこそ教室の辺境で三人は団結した。内職をするにも居眠りをするにもカンニングのまねごとをするにも、誰か一人を見張り役としてたてることで、危機の早期感知と素早い対応を目指す。相互防衛協定に近い黙契を交わした仲である以上、会話は頻繁になる。年度替わりのクラス替えで仲のよい友人と離ればなれになった三人は、見事新しい友人関係を形成するに至ったのである。
 
「俺思うんだけどね、おまえ騒ぎすぎ。大体女同士じゃん。ホモとかそういうの感じないの?」

 窓枠に尻を乗せて足を椅子にひっかけた格好の孝太郎が、体を捩らせ身悶える静に尋ねた。
 
「あんた分かってないんよ。ホモとか男のキモイのんと一緒にしないどいて。もっと綺麗なもんなんよ」
「綺麗なぁ…。ていうかさ、おまえ天嵩先輩と抱き合ったりしたいのかよ。そこら辺聞きたいなぁ」
「はぁ? あたりまえじゃん。あたしがもし、いい? もしもだよ? もしも天嵩先輩を手に入れたら……」

 彼女は芝居っ気たっぷりに一度言葉を切ると、伏せた顔をゆっくりと上げていく。

「沈黙すんな。こえぇだろ」
「手に入れたら。まずあれよ。着せ替え。うん。着せ替えから始める」

 孝太郎が露骨に顔をしかめる。これは変なもの見ちゃったぞ。そう目が告げていた。
 
「いや、おれに置き換えてみるとだな、明とべたべたするようなもんじゃん? ありえねえよ」
「高江とかと先輩一緒にすんな! マジきもい。坂下キモイ」
「おまえの知ってる言葉は『カワイイ』と『キモイ』だけかよ。だから馬鹿っぽいって言われるんだぞ。大体おまえ、天嵩先輩と路線違うし。あの人超お嬢様系だろうが。それに比べておまえは…」

 今度芝居を演じるのは坂下のほうだった。彼は視線を静の頭から足下まで数回往復させ、大げさにため息をついた。

「あ、なに今の。ちょっと今の何! 高江はそんなん言わないよね。……高江ぇー、きいてんの?」

 ついにお鉢が回ってきた。机の上に組んだ両腕を即席の枕にして寝そべっていた明は内心苦笑しながら顔を上げた。

「んん? うっさいな。なに?」
「あたしイケてるよね? どうなのよ、そこんところ」

 笑い話と思いきや、彼を見つめる静の顔は案外真剣で、冗談で流してしまって良いものか悩む。こういう下らない話から友人関係にひびが入るのは良くあることで、小さな瑕瑾が酷い事態に発展する様を嫌というほど知っている彼にとっては一笑に付すことなどできない。擬態の眠気を全面に押し出しながらつとめて軽い声を出す。

「あ、うん。いいんじゃない。熱田、いいと思うよ」

 大事にならないように、かといって流しているようにも聞こえないように、声色を調節するのは結構面倒だ。細心の注意を払った明の配慮を知ってか知らずか、満足げに頷いた静は再び話題を変えた。

「そういえば高江、知ってる? 二組の東子。あんたのこと超イイって言ってたよ」

 若干声のトーンを落として秘密めいた口ぶり。またしてもやっかいな話題だった。大体女というやつは、毎日薄っぺらい友達ごっこをしている癖に、恋愛の話になると不気味なくらい団結する。露骨に冷たい態度を取れば直ぐに変な噂が広まる。かといって、浮かれた仕草でもやはり話の肴にされてしまうのだからやっかいだ。寝ぼけ眼を装いながら彼は慎重に対策を練る。

「おれにも春が来たかぁ」
「今度合コンしようよ。あんたカッコイイ男揃えといて」
「合コンって…同じ高校じゃん。それにおれ、そんな暇ねえよ。あ、金もないからよろしく」
「えー! 東子あんたのことマジ気に入ってるんだよ? 春来てるんだよ? 春!」
「いや、春が来ようが来まいがバイトは行かなきゃなんないだろう。坂ちゃん集めてよ」

 いい加減面倒くさくなって坂下に話を振ってみる。明と静の会話を興味深げに聞いていた彼は、突然水を向けられて一瞬目を丸くした。

「おれに振るなよ。無理無理。だりぃ。熱田、天嵩先輩狙いなんだろ? それで合コンとかするのどうなのよ?」
「それはそれ、これはこれ」
「まぁ、おまえがいいならそれでいいけどな」

 肩を竦めて窓枠から離れた彼の仕草を、様になっていると明は思った。バスケ部の中心選手として活躍する孝太郎は、小兵ながらも機動力と空間把握能力に優れ、ゲームを支配下に置くことができる数少ない選手の一人として県内でも有名だった。
 卵形の細長い顎筋に精悍さを与える短髪と、二重の瞼を開いて鋭い視線を放つ、周囲の存在全てを把握せずにはおかないその瞳は、当然の如く女にも歓迎される類のもので、浮いた話を採取すればきりがない。いくら友人のものとはいえ恋愛ネタなど興味がない明にすら、その声は聞こえてくるのだから、水面下ではそうとうな数の女子生徒に好かれているのだろう。
 孝太郎を選ぶのは正しい選択だ。明はそう考えていた。良い悪いは別にして、孝太郎には裏表がない。腐葉土の下で蠢くミミズのような第二の思考がない。飛び抜けた正義感を持っているわけでもないし、極端な性悪でもない。だが、その中庸は得難いものだった。彼は常識の中に生きている。孝太郎と付き合っている限り、その女は度を超した酷い扱いを受けることはないだろう。適当なところもあるけれど、一応の筋は通す。それ以上の高望みは、望む方が間違っているのだ。

「飯食おうぜ。午後すぐ体育だろ。また男子はマラソンだよ…ったく」

 熱を帯びた会話が孝太郎の一言によって鎮められていく。彼の言葉を合図に明と静がごそごそと鞄から弁当を取り出した。
 
 時刻は一二時を五分過ぎていた。教室のあちこちに自然発生した机の孤島を囲んで各人思い思い食事をする。明の通う県立栢高校には食堂がないものだから、生徒たちは弁当持参である。駅からの通学路でぱっくり口を開いて待ち受けるコンビニでパンを買うものもいれば、自作の不格好なそれを持ってくるものもいる。見かけによらず料理が趣味の静などは毎日毎日手の込んだ弁当を持参するし、料理ができず親が作ってくれるわけでもない孝太郎はいつもコンビニ弁当。そして明はといえば、昨晩炊いたご飯に具をつめて適当に丸めただけのおにぎり。見かけは不味そうで、実際に不味い。
 
 教室に備え付けられたスピーカーから流れるクラシックの調べを喧噪が乗り越えていく。日の光を左肩に浴びながら、今度は本格的に襲ってきた眠気をこらえて、明は球状おにぎりを口に詰め込んでいた。
 
 だからだろうか、不意に騒がしくなった教室の入り口付近を意識することもない。塩気の強すぎるボールを一刻も早く飲み込んで、一秒でも眠りたい。落ちて来る瞼と戦う彼の肩を叩いたのは孝太郎。つられて顔を上げた先には、一人の少女が立っていた。
 
 彼女は涼しげな表情を崩さない。教室中の視線を一身に集めながら、表面上動揺のかけらも見えない。しかし彼は、優しいウェーブヘアの隙間から除く耳蓋が真っ赤に染まっているのを見て内心笑った。平静に見えて、やはり恥ずかしいことは恥ずかしいらしい。どうでもいい感想の次に思い浮かんだのは疑問。この人は一体なんでここにいるんだろう。だから聞いてみた。
 
「どうしたんです…天嵩先輩」

 少女はその手に持った二つの巾着袋を軽く掲げてぎこちなく笑った。彼にはそれが、笑みと言うより、怯えと決意の混合体が作り出すいびつな表情に見えた。
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